【前回記事を読む】「何か飲む?」と聞くと、彼女が頼んだのは氷なしの炭酸水…ところが、酒が入っていないと確信するまで、グラスに口をつけなかった
Ⅰ.現実世界:とある場末のライブバーで
「お次はどこで歌う予定?」
「少し北に移動して、二ヶ所くらい。一つは前にユーコママが紹介してくれたピアノバーです」
メッサーが続けて店名を出すと、心当たりがあったのか、ユーコは表情を輝かせた。
「入院で休業してたって聞いてたけど、再開したのね。マスター、元気そう?」
「電話口だけでしたけど、相変わらずでしたね。お茶目で、お話好きで。そちらに伺う前に、ここで唄(うた)ってきますって言ったら」
軽い咳払いで言葉を切ったメッサーは、電話で聞いた嗄(しゃが)れ声と同じ口調に変えて話す。
「親愛なる悪友によろしく。と」
件(くだん)のマスターの癖とも言える気取ったウィンクまで真似てみせる。ユーコは笑い出しながら、この芸達者に向け、二、三度手を叩いて賛辞を送った。
「まったくもう。あんな悪い大人の真似なんてしちゃって、この子は」
艶やかな前髪に覆われたメッサーの額を、軽く指先で小突く。小言で嗜(たしな)めつつも、旧友の無事を聞いたユーコの頬は緩んでいた。
「じゃあ私からも伝えておいて。簡単にくたばるんじゃないよ、ってね」
「ええ、了解です」
敬礼を真似て指を二本こめかみに当てながら、明るく返す。脅しかけるような迫力が籠もった一言、どのように再現してマスターに伝えようかと考えつつ、グラスを傾ける。