「でも、あの部屋にあるものは、奥さまのものでしょう? 返してあげた方がいいのではありませんか」

「そんな必要はない」

そう言ったものの、英介の心は複雑だった。恵美は確かにここを出て行ったが、英介がそう望んだわけではなかった。憎しみ合って別れたわけでもなかった。

そもそも、どうして恵美が別れると言い出したのか、英介にはよくわからなかった。息子が就職して家を出て、これからは二人で残りの時間を過ごすのだろうと、漠然と思っていた。

定年を前にして関連企業に出向することも伝えた。給料は減るが、しばらくは現役で働けると説明すると、恵美も賛成してくれた。蓄えも多少はあった。年金も、それなりに期待できた。世間の熟年夫婦がそうするように、これから二人に訪れる老後という世界について、少しずつ意識し始めていた。

ただ、そういう話を、恵美ときちんとしたことはなかった。どちらともなく、そういう話題は避けてきたように思う。現実と向き合うのが嫌だったのかもしれない。いずれそういうときがくるだろうとは思っていた。その前に恵美は出て行った。

好きな人ができたと言っていたが、それがどんな男なのか、英介は知らない。そもそも恵美にそういう相手がいたということも気が付いていなかった。

何度も話し合った。一時の浮気なら、水に流してもいいと思ったが、恵美の意志は固かった。英介は、半ばあきらめた格好になって、離婚に合意した。

英介の心には、小さな痛みだけが残った。離婚して、ただの他人になってしまうと、恵美と暮らしてきた二十五年が、何もなかったような時間にも思えてきた。

当たり前のように傍にいた妻のことを、自分はこれまでどれだけ見てきたのだろうか。彼女は何を感じながら、これまで英介と接してきたのか。そんなこともわからないまま、ここまで来てしまったのかと思うと、空洞を見るような気持ちになったが、それもあとから思うことだった。

それから、数日後のことだった。

「わたし、働こうかしら」

スマートフォンを見ていた葉子が、突然言い出した。

「この部屋にいるだけでは、退屈か?」

「そういうわけではないのだけれど、もともと休みもなく、お店で働いていたでしょう。

そういうのに身体が慣れてしまっているのよ」英介に、反対する理由はなかった。

「あまり負担にならないような仕事を選んだらいい」

「それでは、働く意味がないわ」葉子は笑った。

求人サイトを検索すると、いくらでも募集はあった。レジや接客、調理補助、事務といった仕事が多かった。しかし、葉子は、飲食店には興味がないらしかった。これまでにさんざんやってきたので、もっと違う世界を見てみたいと言った。

試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

▶『雪の夜』を最初から読む
料亭の女将に「おひとりですか?」と聞かれ、小さく頷いた…帰り際、彼女は視線を外しながら「今晩、お部屋に伺ってもいいですか?」と……

▶表題作『霧のみずうみ』を最初から読む
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