【前回の記事を読む】「ちぃと口を開けておくんなし…」と、太夫が僕の口になにか小粒をぽんと放り込んだ。そのとき彼女の指が唇に触れて…
第三話 『ある花魁絵師の恋』誓い
「ありがとうござりんす……」
それは、普段から頭のてっぺんから爪の先まで意識を張り巡らせ、言葉、しぐさ、立ち振舞いのすべてで客を気遣い喜ばす太夫にとって初めての感覚でした。
それからというもの、僕は太夫を「お雪さん」と呼び、そして毎回花を持っていくようになりました。
どこで手折ってくるのか――お世辞にも洒落っ気があるとは言えないものの、お雪にとってそれは、吉原から出ることのできない自分を慮る、温かな優しさを感じるものでありました。
ある日――
「あ、えっと……すみません。今日は顔料を一つ忘れてきてしまいました――」
珍しく忘れ物をしたとつぶやき、困ったような笑顔を浮かべながらそそくさと荷物を纏める僕を眺めるお雪は、この穏やかな時間を名残惜しく感じていました。
なぜだろう。こんな嘘をついてしまうなんて……。
忘れ物なんて一つもしていない後ろめたさから、荷物をまとめつつも、僕は自分の行動に戸惑っていました。 何よりも絵を描くこと、描き始めた絵を完成させることが大好きで、ときには寝食すら忘れてしまう自分が「絵を完成させるのが惜しい」と思うだなんて。
「すみません――今日はなんだか筆が乗らなくて」
「思った通りの線が引けなくて――」
「絵具の発色がイマイチで――」
子供じみた言い訳と(次に来るときは、どんな花を持っていこうか?)ということばかり考えるようになったある日――橘神社の北参道で花売りに遭遇しました。
いつもは道中、目についた花を手折っていましたが、たまにはきちんとしたものを……。