山々の風景を何色もの青色で丁寧に描いた日本画家がいたが、その絵を見ているようだった。明治の頃から避暑地だったこの湖畔には、かつて古い旅館がいくつかあった。
まち子の家も、先々代から続く旅館だった。一人娘だったまち子は、地元の高校を出ると、東京の大学に通わせてもらった。決して裕福な旅館ではなかったと思うが、両親はまち子のために、東京での一人暮らしを支えてくれた。
しかし、大学を卒業する年に父が倒れた。まち子は、卒業するとすぐに旅館を手伝うことになった。その翌年に父があっけなく他界してしまうと、今度は母の具合が悪くなり、父のあとを追うようにして母も他界した。まち子が二十四のときだった。
あのとき、まち子は途方に暮れた。
頼れる親戚もなく、残された旅館を一人で切り盛りしなくてはならなかった。幸い、昔から住み込みで働いてくれている人たちが盛り立ててくれたので、まち子はなんとか旅館の経営を続けた。
しかし、もともと観光資源の少ない土地柄のうえに、新興のホテルに客を持っていかれ、旅館の経営は苦しくなるばかりだった。夏に利用してくれていた市内の生徒たちによる林間学校も自治体の予算削減で中止されると、旅館の経営はいよいよ難しくなった。
そんなとき、会員制のリゾートマンション開発の話が持ち上がった。
この辺りは、霧下という地名で呼ばれている。湖面の水分が北から吹き上げてくる風に冷やされて、一年を通じて霧が多いことで有名だった。その霧が、夏には天然のシャワーとなって涼をくれた。避暑地としては、悪くない環境だった。
湖を一望に見渡せる湖西の高台がリゾートマンションの候補になった。まち子の旅館は、その候補地の一角にあった。
話を持ちかけられたとき、まち子は迷った。父母が必死で守ってきた旅館を閉じてしまっていいのか。しかし、冷静に考えれば、このまま旅館を続けていくことは難しかった。中途半端に存続させて、不幸なかたちで廃業させるくらいなら、条件の良いかたちで手放す方が賢明だと判断した。
まち子は、旅館の敷地一切をリゾート開発の不動産に売却し、旅館を閉じた。長年働いてくれた従業員たちに、まとまった退職金を渡すことができたのが、せめてもの救いだった。従業員たちに渡したお金を除いても、それなりの額がまち子の手元に残った。
それからしばらく、まち子は何もせずに暮した。旅館を引き渡してしまうと、住むところもなくなったので、温泉街にアパートを借りた。もう一度東京に出て、仕事を探そうかとも思ったが、あてはなかった。そんなときに、声をかけてくれたのが、父の代から懇意にしている仁明亭の女将だった。
次回更新は10月25日(日)、22時の予定です。
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