【前回の記事を読む】彼にキスマークをいくつもつけられ「だめ…」と声がこぼれた。彼はやめようとせず、呼吸も段々と荒くなっていき……
霧のみずうみ
4
そのとき、ハンドバッグの携帯が鳴った。
「いま大丈夫?」
娘の佳織からだった。
「大丈夫よ、今日はお休み?」
「いまどこなの、風の音が聞こえるわ」
「湖に来ているの」
「そう」
しばらく沈黙があった。
「どうかしたの?」
まち子は優しく語りかけた。湖から吹きこむ風で、自分の声がくぐもって聞こえた。佳織が打ち明けてくれた妊娠のことが、頭をよぎった。佳織はどうしようとしているのか。
娘の人生は、娘自身が決めることだ。しかし、わざわざ苦労を選ぶような生き方はしてほしくないと願うのは、母の気持ちだった。
「わたし、やっぱり産むことに決めた」
電話の向こうで、佳織が深く息をするのがわかった。
「相手の方とは?」
「彼にはまだ話していない。話さないかもしれない。でも、彼が何と言おうとも、わたしはわたしの意志でそうすることに決めたから」湖面から、ひときわ強い風が渡ってきた。まち子は、かすかによろめいた。
「そう。それがあなたの答えなら、そうするのがいいわ」
「反対しないの?」
「もう決めたのでしょう?」
まち子はそう言いながら、娘をいとおしく思った。彼女がこれから抱えていくものは、生半可なものではないだろう。
まち子には、それが痛いほどわかる。同世代の女の子たちは、周囲に祝福されながら結婚し家庭に入っていく。それをよそ目に、世間には説明できない子供を産み、たった一人で育てていかなければならない。
そう考えると、まち子自身が歩んできた道ではあったが、どうしてこんな選択をと思わずにはいられなかった。
携帯を切ると、まち子は湖の外周を対岸まで歩いた。
湖の南側には、地元で富士山と呼ばれている一際高い新山がある。新山といっても、一万年前にできた山だ。
そのシルエットは、青く深みのある湖面に、くっきりとした姿を映していた。山の持つ青と、湖の持つ青とが重なって、幾層にもなった色があった。