運命の夜
私の夫、勇(いさむ)と私は医学部時代から同期でした。勇は学科でずっとトップで、みんなの憧れの存在でした。私もその中のひとりでした。
私の願いは叶い、卒業と同時に私たちは籍を入れました。大学で六年間も共同生活のような状況でしたから、もはや私には勇なしの生活は考えられませんでした。辛いときでも勇の笑顔に救われ続けました。
それぞれインターンを終えたあと、勇と私は外科医として同じ救急病棟に配属されました。配属後も勇は現場で最も信頼されていました。彼に技術では敵(かな)わない私は、ハートだけは負けないと誓いました。勇は最高の同志であり、ライバルであり、永遠に追いつけない、近くて遠い人でした。
その勇がいつからか医師として行きすぎた思想を持ち始めたようです。オイルショックでトイレットペーパーがなくなった昭和四十八年の暮れでした。珍しくお酒に酔った勇がふと呟きました。
「救命しても、ひどい不具になるぐらいなら、安楽死させるべきだな」
私は一瞬自分が聞き違えたのかと思いました。「不具」は障碍者に対する差別用語です。その単語が、あろうことか夫の口から漏れたのです。しかも「安楽死」……。そのときの私のショックたるや。
しかし、相変わらず勇の仕事ぶりは抜群でした。日々の激務の中で、いつの間にか私は勇の言葉を忘れるようになっていました。いま思うと、記憶から追いやっていたのかも知れません。
あの夏の夜――運命の夜――サイレンの残響の中、八歳の少年を乗せたストレッチャーが処置室へ運ばれました。
「チューブ!」
少年の潰れた胸を見るなり私は叫びました。新人医師の香川くんとふたりで少年の口から気管へゴムチューブを通し、人工呼吸器に繋ぎました。
「イノトリン!」
大量出血によるショック死の回避です。看護婦が袋から取り出したドラムカテーテルを少年の肘から送り込み、心臓に到達しました。
「2アンプル、5パーセントのブドウ糖!」
私はさらに叫びます。看護婦がガラスアンプルの首を折り、液体がカテーテルへ投入されました。無理矢理心臓を動かす劇薬です。
――助けたい、いや、助ける!
一パーセントの可能性でも全力で救うのです。それが医師としての私のプライドでした。
処置の甲斐があり、少年の容態は少し落ち着きました。
「赤道先生、休みましょう」
香川くんは廊下の先の販売機を指さします。
「うん。すぐにいくよ」
香川くんはうなずき、看護婦とともに処置室を出ました。
私はブラウン管に映る心電図を眺めていました。波が起きるたびに「チッ、チッ」という無機質な音が響きます。
……あの子も、生まれていたらこれくらいの歳か。
次回更新は11月3日(火)、11時の予定です。
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