【前回の記事を読む】月商420万円の新記録に沸いた直後、留守電に突然の訃報が。彼は仕事を抜け出し、運転席で1分間動けず、そのまま東京湾へ……
オランダの壺
11
麻田は由那を温泉旅行へ誘い、その屈託のない口ぶりに由那は驚き、電話口で泣いた。長い間、張り詰めていたのだろう。麻田は少し反省をした。
由那は夕食に出された地酒に酔い、仲居さんが敷いてくれた布団に潜り込んだ。麻田が旅館の帳場の脇にあった地方新聞を持って部屋に戻ると、寝たと思った由那が広縁(ひろえん)の椅子に座っていた。
「これ、読んでほしい」由那の手には小さな青いノートがあった。
「なに」
「緑さんの手記」由那はかすれる声で言った。
由那はノートを広縁のテーブルに置き、麻田が反応するより早く椅子から立つとまた布団に潜り込んだ。
「それで全部わかるから」
ここまで来て、予期せず赤道の名前が出た。
「見ないよ」苛立ったが、由那に当たるのは筋ではない。
無言の由那はあちらを向いていて表情は読めない。
もやもやした麻田は大浴場へ立った。
喫茶コーナーの陳列ケースにはいくつか地酒がならんでいた。麻田は大浴場を後回しにし、また地酒を頼んだ。
「お気に召しましたか」
濃茶の着物を着た番頭は破顔している。出された漬物が塩辛く、麻田は二合をあけた。
大浴場の更衣室の引き戸を開けると、ひとつもスリッパはなかった。貸切りの状態だ。
手ぬぐいを片手に浴室のガラス戸を開ける。低温、打たせ湯、高温の三種類の湯があった。麻田は打たせ湯を頭から浴びた。落ちる湯の単調な音がほかの音をかき消す。
麻田は高温の湯船に浸かった。目を閉じると、数分寝落ちをしたようだ。額から汗が出ていた。
湯船から出た瞬間、麻田はめまいで目の前が一瞬真っ暗になった。かろうじて柱に取りすがり、そのまま滑るように崩れ落ちると、古傷の腰に痛みが走った。
「ちくしょう!」
五分は座っていただろう。やっと立ち上がれた麻田が腰を気にしながらゆっくり部屋に戻ると、由那の規則正しい寝息が聞こえてきた。部屋と広縁を仕切るふすまの隙間から冷気が入ってくる。麻田がふすまを閉めに立つと、青いノートが視界に入った。
――殺人犯の手記か。なるほど、面白いじゃないか。
麻田は乱暴にノートをつかみ、掛け布団の上に倒れ込んだ。
癇に障るほど筆圧の強い文字が並んでいた。「運命の夜」という見出しがついている。麻田の食道に胃液のようなものがこみ上げてきた。