石段の中ほどで目を上げると、白い月が上空の真ん中に懸っていた。月の模様までもが、手に取るようにはっきりと見えた。雲はなく、風もなかった。夜気は、アルコールで火照った肌に気持ち良かった。
「宿の部屋に来ないか」
比呂志がまち子の手を取った。
「だめよ、人の目があるわ」
「こんな時間に、誰もいないさ」
「住み込みの仲居もいるし、監視カメラだってあるのよ。変な評判が立ったらいやだわ。わたしの部屋にいらして」
そう言ってまち子は、石段を下り始めた。
今朝がた佳織は、東京に帰ると言って支度をしていた。もっとゆっくりしていったらいいのにと言ったが、一人になっていろいろ考えたいと言われると、引きとめるわけにもいかなかった。
妊娠のことは、あれから話していない。母にできることは、限られていた。娘を信じるしかないと、まち子は思った。
温泉街の中心を通る石段は、四百段はあるだろうか。注意して歩かないと、踏み外してしまいそうなほど急な勾配だった。
切り積みの石段の脇を細い水路がいくつも走り、そこに鉱泉が流れていた。石段の左右に立ち並ぶ旅館へ、温泉を供給していた。流れは速く、翡翠色の水が泡立ち、独特の硫黄の匂いを放っていた。
長い石段を登りきったところに、浅間神社が見えた。小振りだが、風格のある社殿の屋根が、頂の暗い杜の中にぼんやりと見えた。
アパートの六畳間に延べられた布団に、まち子と比呂志は倒れこんだ。帯紐を解かれ、腰紐を解かれると、まち子はあっという間に肌襦袢だけになる。
比呂志は早業のようにまち子の身につけているものを剥ぎ取っていく。まるで、木肌の薄い皮をむくように、生身から剥ぎ取られていく。こうなってしまうと、まち子はもう何も考えられなくなってしまう。
久しぶりの比呂志の匂いだった。まち子はこの匂いが好きだった。この前、比呂志に抱かれてから二か月ほど過ぎていた。二か月が長いのか、短いのか、わからない。
頻繁に会いたいと思うが、そうなってしまうと、違う感情が湧いてくる気もして怖かった。娘の佳織には、もっとわがままになりなさいと言われたが、これくらいの間隔がちょうど良いのかもしれないと、自分に言い聞かせている。
「明るすぎるわ」
まち子は、ほとんど全裸にされ、辛うじて小声で訴えた。
「きれいだ」
比呂志はそう言うと、愛おしいものを眺めるように目を細めた。この目が、まち子を幸福にした。
「お願い。電気を消して」
もう一度、まち子は言った。
「わかったよ」
比呂志は、身体を起こして、蛍光灯のスイッチを切った。
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