【前回の記事を読む】家庭持ちの上司との子を妊娠した娘…「産みたい」と告げられ、母は息を呑んだ…相手には小学生の子供が2人、交際して2年で……
霧のみずうみ
3
何度会っても、何週間振りに会っても、心をときめかせる顔があった。顎の張った男らしい顔つきの中に、輪郭の大きな目がまち子をとらえていた。
比呂志は、待ちわびていたように立ち上がってまち子を引寄せると、唇を重ねてきた。
比呂志の唇がまち子の唇を覆い、声を奪っていく。
「いま塗ったばかりなのよ」
男を押し返すようにして、まち子がそう言うと、比呂志は白い歯を見せて笑った。とても、六十になろうという男には見えない。この整った顔と若々しさが、比呂志の魅力であることは間違いないが、比呂志には女を夢中にする何かがあった。
それは、男の中にある、まっすぐにこちらに向かってくる熱量と、少年のような純粋さだと思った。
「夕食はどうされますか?」
「どこかへ食べに行こう。早く終われないか」
「今日は早出しのお客様ばかりだから、あと一時間もしたら上がれると思います」
「わかった。では風呂でも入って待っているよ」
比呂志はそう言うと、嬉しそうに笑った。
まち子が、きっちり一時間で仕事を終えて部屋に行くと、比呂志は濡れ縁のソファーでくつろいでいた。
「お待たせしました。お腹すいたでしょう?」
比呂志が、嬉しそうな目で見つめるので、まち子は思わず目を伏せた。
「ああ。どこへ行こうか」
「どちらでも、この街のお店は、あなたの方が詳しいでしょう?」
「前に行った、カウンターだけの品の良い小料理屋があったじゃないか」
坂本さんの店だった。まち子は、石段の鳥居の辺りで待っているように伝えると部屋を出た。
坂本さんの店は、仁明亭から歩いて五分ほどの距離にある。石段の細い道を入り込み、突き当たった袋小路に、控えめに佇むようにして店はあった。
簡素な造りではあったが、茅葺の屋根が感じよく古びていて、玄関の真新しい白木と対比している。店に入ると、他に二組の客がいた。まち子と比呂志が座ると、カウンターだけの小さな店は満席になった。
坂本さんの小料理屋では、季節の食材を使って様々に料理がアレンジされる。仁明亭のように派手な料理ではないが、温かみがあり、味は抜群だった。
二人は、煮こごりにも負けない看板メニューでもある豚肉と野菜の煮付け、山菜のお浸しを肴にして、勧められるままに一品料理をいくつか頼み、日本酒を口にした。店を出たのは、十時を過ぎた頃だった。
「あの大将、僕と同じくらいかな」
不意に足を止めて、比呂志が言った。
「さあ。もっと上かと思うわ」
まち子は、坂本さんの彫りの深い顔を思い返した。
「隅に置けないね」
「あら、どうして?」
「君のことを、熱い目で見ていたよ」
「変なこと、言わないで」
そう答えながら、まち子も坂本さんの視線に気付かないでもなかった。普段、仁明亭で接しているときには意識することもないのに、比呂志と一緒にいるところを坂本さんに見られるのは、女としてのまち子の生々しさを見られているようで、なんだか恥ずかしかった。