『死の鉄槌 アダム・スミス神学講義録殺人』

研究室に入ってきた学生を見ると、その年のころは三〇歳近く、自分から夜間部の二年生であると自己紹介をした。

「何か」

 夜間部の講義が始まるまでのわずかな時間に書籍の整理に追われていた富田正男は、この不意の来客に戸惑いの表情をみせつつ、いつもの柔和な物言いで来意

を問うた。

「一言、御礼とご挨拶をと存じまして」

「はて」

 なるほど学年末試験の採点も滞りなく終わり、学校側からよくあるスポーツ特待生の成績にひとつ手心を加えてくれという無理難題も無事にこなしたこの季節となれば、そのような学生の中でとりわけ律儀な幾人かが、単位取得の礼に研究室を訪れることも、たまにはある。

 しかし、目の前に立っている白い開襟シャツ姿の学生は、筋骨こそ逞しいが富田に劣らぬ矮躯であった。

「体育会の方ではなさそうですが」

「はい。いえ、自分はその、違います」

 最近で珍しくなってしまった学帽を手で弄くりつつ、筋肉に取り囲まれて、ただでさえ短く見えるその太い首をすくめながら、来訪者は話し始めた。

「先生の経済学史の試験に遅刻しまして。あの日は」

「遅刻を、された」

 ここにきて富田も漸くに思い出した。今から二週間も前のことであろうか。夜間部の前期試験でのこと。遅れて試験場にやってきて監督の職員に入場を懇願していたのは確かにこの学生であった。

「あの日は非番ではありませんでしたので、生憎、緊急の要件が出来まして遅刻を。それを承知の上で監督の方にお願いをしている時に、先生が巡回にいらして」

 富田が担当する経済学史は経済学部の夜間部学生にとっても必修科目であるから受講生も多い。いくつかの教室を足早に巡回し、試験中の学生や監督者から出題に関する質問を受けるのが常であった。

 あの時、学則に定められた猶予の時間は過ぎていた。しかし、明かに仕事帰りとわかる年かさの学生が熱心に受験を懇願する様をみて、富田は何やら昔の自分を思い起こしてしまい、担当教員の威をあらわにして受験を許可すると申し渡したのである。

「いかがでしたか。結果は」

「はっ。御陰様で『良』をいただきました。ありがとうございました」

「そうですか」

 成績のことまで聞くに及んで富田は少し訝しく思った。得意でない科目で思いがけず優がとれたということで、謝意を述べに来たというのならまだ頷ける。しかし、この学生のように中程度の成績をとれたというだけで礼を言いに来たものはなかった。学内のそこかしこに立て看板が置かれ、政府批判のビラが散乱しているころのことである。この男は、礼をかねて何の挨拶をしにきたのか。

「あの、申し遅れましたが、自分は本日、教務課に退学の届を提出いたしまして」

 富田の怪訝な表情を察してか、訪問者は早口で来意の詳細を述べはじめていた。

「自分は、あの、公務員、警察官でありまして」

「はあ、さようですか」

 昇進試験のために大学卒業資格を必要としていたが、今よりも勤務が不規則な部署に異動となったため修学が困難になったのだと、学生は息せき切って説明を終えた。

「ご栄転のようで結構です。しかし、退学されるのは残念ですね」

「職位は動きませんので、使い走りです。でも、やりがいのある部署ですので」

「抜擢ということですか」

 学生は、恥ずかしげに小さくうなずいた。近頃は大学の中であまり見かけなくなった純朴な笑顔である。

「学生生活最後の試験は、きっちり済ませようと思いまして。仕事柄、今まで決して出席状況のよいほうではありませんでしたので。肝心の必修科目でつまずくきそうになったところを先生に助けていただきまして、本当にありがとうございました。これで心残りなく、職務に専念できます」

「御多忙のところ、御丁寧に恐縮です。御活躍をお祈りしております」

 富田の祝辞に、学生は学帽をかぶりなおして敬礼をした。凛々しく自信に満ちた顔があった。

 窓の外で、遠く学生デモ隊のシュプレヒコールや笛の音が聞こえていた。

 時に昭和四〇年代もはじめのころ、学生紛争華やかな都内某私立大学での、ほほえましい子弟の縁であった。

一.

 縁というのは本当に不思議である。

現に、僕が切り抜いている三面記事は、都内にある古書籍商兼骨董商で起こった殺人事件に関するもので、その現場というのは何を隠そう僕の母校である某私立大学のすぐそばなのだ。場所も知っていれば、もったいぶったその店構えだって正確に思い出せる。

 所長はこの記事にやけにご執心で、もう地方紙やスポーツ紙を含めて七、八枚の切り抜きを作らされた。全部、同じこの古書籍商の事件である。これはかなり異例のことだ。それぞれの切抜きの内容はみんな似たり寄ったりである。事件が密室に近い状態で起こったこと、重要参考人として近隣の某巨大私立大学経済学部、つまりわが母校の名誉教授が召喚される可能性があることなどなど、所長が重要であると感じた部分に、例によって朱筆が添えられている。

 「あなたの母校ではなかったですか」

 

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