まち子が、口を開こうとしたときだった。
「産みたい」
「だって……」
思わずまち子は、身を乗り出した。どうして娘までもが、こんな道を選ぼうとするのか。佳織の目が、はっきりとまち子に向いた。
「お母さんは、二十六のときにわたしを産んだでしょう。わたしも、来年には二十六になるのよ」
まち子ははっとした。二十六年前の自分の姿が、娘と重なってくる。そしてまち子は、五十を越えた自分の年齢を思った。比呂志と知り合って、積み重ねてきた時間を、重たい石のように抱えている自分の姿が見えてくる気がした。
しかし、あの頃といまとでは時代が違う。女の生き方も変わった。何が幸せで、何が不幸なのか。ただこの子だけには、幸せに生きてほしい。でも、幸せとは何だろう。
誰かを好きになって、結婚して、子供をつくり、家庭を守っていく。それが幸せのかたちなのかといえば、自信がなかった。それは、まち子自身への問いでもあった。
不意に、佳織が顔を上げた。
「いま頃、湖は真っ白かしら」
この温泉街から十キロほど登ると山頂に着く。そこは、広大なカルデラになっていて、見渡す限りの草原が続いている。壁のように四方を山に囲まれて、その真ん中に大きな湖がある。
春から夏にかけての季節、とくに明け方や夕暮れには、湖面に厚い霧が立ちこめる。霧は、湖ばかりでなく、カルデラ一帯のすべてを包み込み、何もかもが沈んでしまう。
まち子にとっては、思い出深い風景だった。
3
よく晴れた日で、夕暮れの山並みが、影絵のように残っていた。西の空に丸い月があり、陽が落ちても辺りには光がちりばめられているようだった。
永井比呂志が仁明亭に到着したのは、夜の七時を回った頃だった。東京から新幹線で一時間、それからタクシーを四十分ほど走らせるとこの温泉街に着く。
比呂志の会社は、温泉街から十分ほど走ったところにあるテクノパークに工場を構えている。近くに宿泊施設がないので、東京から出張に来た社員たちは、新幹線の駅前にあるビジネスホテルか、この温泉街に宿泊する。
比呂志は宿にとっては常連だったし、接待や宴会でもよく仁明亭を使ってくれるので、特別扱いだった。
まち子と比呂志の関係を定かに知る人はいない。聞かれたら、古い知り合いということにしている。かつては、二人を好奇と疑いの目で見る人もあったが、いまは誰も気にしなくなっていた。
まち子は、身長の高い比呂志の丈に合った浴衣を見立てた。仁明亭の浴衣は、季節によってデザインを変える。月の初めからは、若葉をあしらった春向きに意趣替えしたばかりだった。
居ずまいを整えると、まち子は比呂志のいる部屋に入った。二階の南向きの部屋だった。
玄関の引き戸を開けると、二畳ほどの続きの間があり、その奥には八畳の和室があった。窓際の濡れ縁には、ひじ掛けのついたソファーがあり、そこからは、山々の稜線が眺められる。はるか高みに夜の闇があり、山の頂が月明かりに照らされていた。
通り一遍の挨拶をすると、まち子は頭を上げた。
▶この話の続きを読む
2か月ぶりに恋人と再会した夜…待ちわびたように抱き寄せられ、唇を塞がれた…電気を点けたまま、私の服を脱がせてきて……
【イチオシ記事】どのような経緯で二人きりになったのか、どうしてホテルに行くことになったのか覚えていなかった
ゴールドライフオンライン(GLO)は、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン(GLO)編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp