むかし、むかしのそのむかし。

ある桜の木が生まれた。

時には人々が集まり、時には人に疎んじられながら、桜の木は何を言うわけでもなく、ただただ同じ場所に立ち続け、同じ時季に花を咲かせた。

花は咲き、花は散り、人々は美しさと憐れさの狭間を行き来する生命が愛おしく、心の花びらを淡い色に染めては慕情の月を仰ぎ、儚い時の流れを学んでいった。

桜の木は何も言わない、何も語らない。

ただずっと刹那な人々の感情をそっと彩るためだけに立ち続け、季節の訪れを告げていった。

自分が誰かを愛しているように、誰かが自分を愛してくれている。

透明で強い真心を持つ人々が集まってくる満開の桜の木の下。

笑顔と引き換えに季節は巡り、桜は時々思い出す。

あの家族と仲間たちのことを。

プロローグ

学生 ボク

真っ白な雪山をボクは登って行く。

美しいU字谷を遠くに見ながら、昔ここは氷に覆われていたのかも知れないと空想し、ゆっくりと赤く荒れてきた頬に痛さを感じながら進んでいく。

カールと呼ばれる氷河に削られた谷の上部から朝日が見え始めてくる。気持ちは歌でも歌いたくなるくらい軽く、空には雲ひとつない青空が広がっている。

やがて辺り一面の雪原が目の前で眩しく輝く。一カ所だけ直径十メートルはある大きな円を描いたような、全く雪のない地面むき出しの場所に出る。

ゴーグルを外し、風景を確かめる。やはり雪はない。それどころか、雪のないその場所の真ん中あたりに二カ所紫色の花が咲いていることに気付く。ボクの見つめる花は円の中心に位置し、二カ所あることから、その円は正円ではなく楕円である想定が頭を巡る。

そういえば、どうして雪山なんて登っているんだろう。

そう思った瞬間にまるで蟻地獄のように二つの紫色をした花を最初にして、楕円形の雪のない場所が音もなく大きな穴となり、ボクはあっという間に暗闇に吸い込まれて行く。

暗闇の中に吸い込まれたボクは一本の随分と頼りない綱の上を歩いている。

先程とは打って変わって、辺り一面の暗闇となり、遠くに見えるわずかな光を目指して慎重に歩を進めて行く。

“ゴー、ゴー、ゴー”と、ものすごい音が聞こえてくる。

間違いなく、こちらに近づいてくる。振動も大きくなってきていることを感じる。近づくものの正体がやがて見えてくる。