序
スターターロープを力任せに引くと、2サイクルエンジンが爆(は)ぜ、心臓部がブルリと震える。男は無表情で草刈機を担ぎ上げた。
右手にあるスロットルレバーを握ると唸りが増し、円盤が正確無比な独楽(こま)のように高速回転する。あたかも静止しているかのように静謐だが、その内には巨大な暴力を秘めている。エンジン音は蝉たちの大合唱を凌駕し、真夏の時間を止めた。
円盤の縁(へり)を当てると、伸び放題の夏草たちが次々倒れていく。地面を這う奴らは土ごとこそぎ落とす。石に当たって火花が散る。悪意ある欠片(かけら)が男の頬に襲いかかった。男は悪態をついて唾を吐く。
一
県立高等学校国語科教諭の中洞次郎(なかぼらじろう)は、パートタイムで働く妻と米寿の母親との三人暮らしである。
畑仕事を唯一の趣味とし、荒地を開墾し、耕作放棄地を引き受け、ここ三十年で畑の面積を増やしてきた。
今では四畝(せ)ほどにもなる。家庭菜園としてはかなり広い方だ。その時々の楽しみではあるが、退職後の生活に向けての準備という意味合いもある。
一人娘は東京の大学へ行き、都会で就職した。当初は神奈川県中央部にある自宅から通勤していたが、満員電車に辟易し、二年目には杉並区にアパートを借りて一人暮らしを始めた。
その三年後に同業他社の男と結婚した。両者ともキャリアアップに励むばかりで、今のところ子どもを持つ気はない。二人が次郎に顔を見せるのは正月くらいである。
親戚付き合いもないし、家を行き来するような友人もいない。ただ静かに三人肩を寄せ合う暮らしである。
畑は、借りているといっても賃料は払っていない。畑のオーナーが草だらけにしているよりは、と知り合いを通じて菜園を探していた次郎に貸すことになった。
しかしタダにはタダなりのことがあって、畑をしっかり管理していないと、携帯電話が震え、下手をすれば除草剤が撒かれる。
耕作はしなくても、先祖代々の農地に強い思いがあるのだ。次郎は常に雑草には細心の注意を払い、特に夏場は定期的に草刈機を回していた。だから今まで、生い茂る夏草に悩まされることはさほどなかった。