【前回の記事を読む】私は1944年、日本領だった樺太(現在のロシア領サハリン)で生まれた。父は樺太庁で出世コースを歩んでいた。
第一章 終戦前に生まれて(幼少時代)
樺太で誕生
一方、昭和元年当時、母・貞子(さだこ)は、親の転勤先の福岡で、小学校の低学年だった。外国企業に勤める“ハイカラ”な両親のもと、おしゃれな洋服に白いソックス、黒い革靴の写真が何枚か残っている。
弟たちと、のびのび過ごした母は、同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)に進み、寄宿舎に入りながら青春時代を過ごした。
卒業後、縁戚の父との縁談が決まると、樺太の神社で結婚式を挙げた。多くの祝福を受けての結婚だった。麗しく豊かな樺太の風土とは裏腹に、昭和は、世界も日本も暗雲に覆われつつあった。
父の手記に記された当時の状況を見ると……。
「昭和11年(1936)二・二六事件が起こり、世情騒然として、ファシズム、軍国主義の最盛時代に向かっていた……」
イタリアではムッソリーニ、ドイツではヒトラーが台頭。この2つの国と同盟を結んだ日本は、日中戦争の集結を見ないまま、太平洋戦争(1941〜1945)に突き進んでいく。
日本は、アジアを西洋列強の支配から解放するとして「大東亜共栄圏」をスローガンに掲げ、この戦争を大東亜戦争と呼んでいた。
「昭和17年(1942)、大東亜戦争はますます激しくなり、食料の確保は緊急を要することになった。(略)都市のあらゆる空閑地を利用して馬鈴薯を栽培することになり、私は企画を担当した。自転車でよく農村を行脚して農家を激励した。各家庭の庭先まで、馬鈴薯や野菜を植えることとなり、花壇は姿を消してしまった」