「藤乃屋は、真由美が女将をしていた宿だ。柱の傷も、庭の木の一本一本も、真由美の時間が染みついている。そこに仏壇まであったら、君は毎日、亡くなった前の女将に見られながら、女将を務めることになる。それは、あんまりだと思った。
だから俺は、真由美を寺に移した。君に、この藤乃屋を『よし子の家』だと思って、のびのびと笑っていてほしかった。墓に一人で通っていたのも同じだ。前の妻を想う姿を見せて、君を寂しがらせたくなかった」
雅彦は、ふっと、自分を嘲るように笑った。
「……でも、それがかえって君を一人ぼっちにしていた。君の心に、入れない部屋があると、思わせてしまった。俺は、優しさのつもりで、いちばん大事なことを間違えていたんだ」
雅彦の目から、涙がこぼれ落ちた。
「よし子、よく聞いてくれ。君は真由美の代わりなんかじゃない。ただの一度も、そう思ったことはない」
「真由美を亡くして、俺は何年も笑えなかった。もう誰かを好きになることなんて、ないと思っていた。そんな俺が、もう一度生きてみようと思えたのは……同じように大切な人を亡くした君が、隣にいてくれたからだ」
「正志さんを亡くした君だから、俺の痛みが分かった。真由美を亡くした俺だから、君の痛みが分かった。俺たちは、お互いの『喪失』ごと、出会ったんだ。だから君は、誰の代わりでもない。真由美を亡くした俺が、それでももう一度、自分で選んだ人だ。たった一人の、よし子だ」
よし子は、泣きながら何度も頷いた。
(私……ずっと一人で、勝手に怖がっていた。でも雅彦さんは、私の知らないところで、ずっと、私のことを考えてくれていた)
しばらくして、よし子は涙を拭い、雅彦の目をまっすぐに見た。
「雅彦さん。一つだけお願いがあるの。真由美さんを、もう寺に置いておかないで。この家に、迎えてあげて。正志の仏壇の、隣でいいの。私、真由美さんに、ちゃんとご挨拶がしたい」
雅彦が驚いたようによし子を見た。
「……いいのか」
「だって、真由美さんは、雅彦さんと大輝くんが、いちばん大切にしてきた人でしょう。この家族の、大事な一部でしょう。雅彦さんが、私の正志を快く迎えてくれたみたいに、私も、真由美さんをお迎えしたいの。私たちは二人とも、抱えているものがある。それも全部ふくめて――家族だもの」
雅彦は、言葉をなくしたように、よし子を見つめ、そして、深く頷いた。
数日後、よし子と雅彦は二人そろって、山の寺へ向かった。
真由美の墓の前で、よし子は初めて手を合わせた。
