直弼は翌日衣服を改めて、大殿への挨拶のために上屋敷に、さらに、月末には大殿に伴われて江戸城に上り、将軍にお目見えした。
これで直弼の彦根藩次期藩主としての立場が正式に認められたのである。藩主の直亮は直弼の初お目見えが終わると間もなく、就封のため彦根に戻った。
父はすでに江戸詰めが五年続いていたが、徳三郎もこの年は若殿小姓として江戸残留を命じられていた。徳三郎は若殿のすぐ近くに仕えながら、直弼が次期藩主として成長していく過程をつぶさに見ることになった。
藩主が江戸を離れている間、世子直弼は藩主代理を務め江戸城溜間(たまりのま)大名筆頭としての行事に参加しなければならない。
そのために、中屋敷から上屋敷に移った。溜詰大名は月次(つきなみ)登城と言って毎月十日と二十四日に登城し、黒書院の溜間に詰め、将軍に拝藹してご機嫌を伺い、政務ある時は老中と討議することもある。
また必要ある時は将軍に会って直接意見を具申する権利を持っていた。また老中が諸大名に大事を伝える時は老中と列座した。
溜間は江戸城中奥の将軍御座所の近くにあって、彦根藩井伊家、会津藩松平家、高松藩松平家の三家だけが常にここに詰めることを許されていた。
この三家が「常溜(じょうだまり)」として固定されている家柄で、他に溜間に詰めることが許される家としては、特命によって溜間詰めを許される「飛溜(とびだまり)」の家と老中を務めた後一代限りでそれを許される「溜詰格」の家があった。
この時期には「常溜」の三家のほかに、姫路藩酒井家・松山藩松平家・忍藩松平家・桑名藩松平家の「飛溜」と佐倉藩堀田家・小浜藩浅野家の「溜詰格」の九家からなっていた。
松平家は徳川一門、酒井家は井伊家と並ぶ譜代大名筆頭格であり、堀田家も浅野家も名門である。
直弼は捨扶持三百俵の身から突然この溜間詰めの筆頭となりこれらの名家の人々と接するだけでなく、将軍に直接言葉をかけることができる立場となり、江戸城内のさまざまな行事に参加しなければならない。
そのためには江戸城における複雑な作法を学ばなければならなかった。登城した当初は席順や作法に誤りを犯さないかと常に神経を張り詰めていたので、城から下がると疲れ果て早々と床に就いた。その緊張は側近たちも同様である。
幸い大殿の供をして江戸城に上がったことのある老臣たちがいたから、基本的な服装や作法については彼らが一通り知っており、登城の前日は彼らが御前に伺候して説明してあった。
しかし、家臣たちは溜間までは行くことができないから、溜間での様子やそこでの話題などについては詳しいことはわからない。
留守居役や用人役のものは溜間詰めの大名家の留守居や用人たちを訪ねて情報を集め、いま江戸城でどんな問題があり、どんな話題が出る可能性があるかなどについても、若殿が恥をかかないように準備しておかなければならなかった。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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