【前回の記事を読む】台所で私に背を向けた父に、何度も、持っていた包丁を向けようとした。〈この人さえいなくなれば〉それしか考えてなかった。

第一章 逃走

〈あれ? 私、いつ頭を殴られたんだっけ?〉

こめかみから温かいものが垂れてきて、顎(あご)まで伝ってしずくとなり、服の胸元が紅黒く染まった。立ち止まって目をやると青いトレーナーは血だらけだった。スニーカーの踵を踏んだ膝下も、青あざや擦りむいた傷が無数にある。

昭和五十八年、十一月。その日はいつもと違った。

父さんに殺されるかもしれないと感じたのは初めてだった。数年前に兄のサトシが日光の遠足で買ってきた木刀(あいつはホントにロクなものを買って来ない!)を、酒に酔った父さんが持ち出してきたあたりから、「まずい」と思った。

最初はいつものように酔った父さんが、二階にいた私を「ゆかぁっ! 有香ぁっ!」と大声で呼びつけた。慌てて階下の台所、すなわち父さんが酒を飲んでいる所へ下りて行ったのだけれど、あの絶叫ぶりで機嫌のよいはずがない。予想通り、父さんはクダを巻いてきた。

昨日は高校で進路指導があった。大学へ進学するのか就職するのか、おおよそのことを担任のトミサトは知っておきたいようだった。

私が自分の成績を顧みずに「進学したいですねぇ。アオガクか六大学に行きますよ」、なんて軽口を言ったら、トミサトは「ふざけるな! 本当に大学へ行くために真剣に勉強をやっている奴らに申し訳ないと思え!」と怒鳴って、私の頭に出席簿を振り下ろした。

〈実はね、先生。我が家は今、進路をどうするとか、そんなことを考えていられる場合じゃないんですよ。ウチの父さんはこの夏が来る前に、会社を他人に取られて借金だけを背負わされたわけで。夏休みには中学三年のタエが受験だからって、母さんと妹が二人で家を出て行ってしまったんです〉

そんな父さんを独りにできなくて、私は父さんのそばに残ったのだけれど、これがまた大きな選択ミスだった。母さんたちが出て行ってからというもの、父さんは酒に酔ってネチネチと因縁をつけては毎日、私を殴るようになっていった。