【前回の記事を読む】仏像と経典を焼却し、僧侶を生き埋めに…北魏太武帝の過激な仏教弾圧。その原因は、中国人が今でも好きな、あの“食べ物”の可能性が……
織田信長
禅の誕生
ところで日本人は豚肉を食べなかったが、アメリカからペリー提督(ていとく)がやって来て、開国すると、白人の居留地で盛んに肉食をするのを見て、日本人も肉食をするようになった。十五代将軍の徳川慶喜は「豚一殿」とかげ口された。一は一橋の意、慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男だが、一橋家を相続した。
戦後、日本も豊かになると、豚肉など食べる者、魚を食べる者、従来通りの食事をする者に分かれたようである。肉食型、魚食型、穀菜食型と分類されている。
日本人の腸内細菌の型
肉食(バクテロイデス)50%
穀物野菜食(プレボテラ)15%
雑食(ルミノコッカス)35%
(株)メタジェンの調査による。
豊臣秀吉
豊臣秀吉 その光と闇
英雄盛衰の方程式
豊臣秀吉は、云うなれば下剋上の申し子であり、織田信長や徳川家康が、小なりといえども大名の子であるに対し、一介の水呑百姓の小倅(せがれ)から、天下人にまで上りつめた、突然変異種である。以下、その独特の、運命を分析的に書いてみたい。
秀吉の天下人となるスタート地点は、思うに備中高松城攻めである。
高松城は広島の毛利氏の前衛である。城は要害で城将清水宗治は良将だった。
高松城周辺の地形は扇子をイメージしてもらえばいい。要(かなめ)の部分に高松城がある。東北の後背地は山、東南の前面は低湿地で湖沼や深田が多い。秀吉はこの高松城攻略に前代未聞の方法を用いた。
城の前面の低湿地に堤防を築いて城を水没させようという作戦である。堤防の長さは四キロ、底面は幅四十メートル、上部の道路部分は二十メートル、高さは十メートルである。これを土俵を積んで築く方式を用いた。計算すると七百六十万俵という数字が出た。秀吉は陣中に帯同していた作事奉行に工事を担当させた。
当初は捕虜二千人ほどで工事にあたらせたが、これでは足りないとみた秀吉は、この地方の百姓一万人を使役した。土俵(空き田俵)に土をつめた一俵を運んでくれば、銭百文と米一升を与えた。この話は備中一帯に広まった。男だけでなく女子供まで土俵をかついだり、車に乗せたりした一群が陸続として続いた。