これを見た秀吉は喜び、笑い、燥(はしゃ)ぎにはしゃいだ。「人間を動かすのは金だ、金で欲望を刺激し、動かすことができる」これが秀吉の、(よくも悪くも)哲学となった。工事は五月八日に起工し、十九日に完成した。正味十二日である。
毛利の援軍吉川元春と小早川隆景が到着したが為すすべがなかった。戦闘をしている間に人造湖の水かさが増え、城兵も家族も溺死してしまうであろう。
そこで和議ということになり、秀吉側からは軍師黒田官兵衛、毛利側は外交担当の安国寺恵瓊(えけい)が接衝にあたった。領土協定と城将清水宗治の切腹ということで和議が成立した。余話となるが、恵瓊は信長にも秀吉にも会ったことがあり、有名な予言を残している。
「信長の代は五年三年は持つべく候、明年あたりは公家などに成られ候かと見および申し候、左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
(さりとては、=これはまたという嘆声)
官兵衛はこの予言を秀吉に伝えたであろう。「恵瓊は殿のことを大変ほめております。信長様の後を継ぐのは殿になるだろう、などと言っております」「まさかね」と秀吉は一笑に付したろうが、万一の事態を考えてプランだけは考えたかもしれない。プランだけなら半日でできる。
叙述が前後するが、主君織田信長は六月二日本能寺で明智光秀に討たれた。その変報は三日夜か四日頃には届いたとみられる。それで領土などは比較的寛大な条件での和議が成立した。秀吉は健脚の若者を先行させ、百姓達に湯茶、にぎり飯、馬の飼料まで準備させた。兵士達は走りながらにぎり飯を食い、水を飲んだ(現在のマラソン競争と同じようだ)。
秀吉は舟で瀬戸内海の海路を行き、睡眠をとり、多分、重い甲冑も運んだであろう。
西井上(現備前町)あたりに上陸し、相生街道を通って姫路に向かったと見られている。 特筆すべきはこの時、安国寺の予言を聞いていたのか、小早川家の旌旗を十数本、秀吉に贈った。明智の軍勢はこれを見て、小早川の軍勢も敵になったかと勘ちがいした筈(はず)である。
姫路城で軍勢を調えると、急行軍で京都に向かった。途中秀吉は帯同していた祐筆に様々の内容の書状を口述し、武将達に送りつけた。中には「信長様は本能寺で光秀に襲われたが、危うくも、切り抜けられ、無事である」などと虚実取り混(ま)ぜのフェイクニュースも流していた。今でいう情報操作をしていた。生涯に発送した書状二万通、当時の武将の中で断然多い。
もう一つは急行軍による攻撃である。これは(多分、体内のアドレナリン分泌により)勇気凛々となる。秀吉はこの急行軍を柴田勝家との賤(しず)ケ岳の戦いでも用いている。
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