乱世を翔(か)けた織田家――隆盛から滅亡の危機
織田家は、もともと尾張国を治めていた守護の斯波(しば)氏(し)に代わって、尾張国南部(下四郡)を実質的に支配していました。
有楽斎の父・織田信秀は、津島神社の門前町として大いに栄えていた、木曽川に臨む津島湊(つしまみなと)を支配下に置くことで、勢力を拡大しました。さらに第二の経済基盤として、尾張の経済の中心であり物流の要でもある熱田湊(あつたみなと)も掌握します。そして、港を通る船からの通行税によって莫大な富を得て、勢力を拡大します。
同時に信秀は、その財力によって政治的地位も高めていきました。
天文十年(一五四一)には、財政難で式年遷宮ができなくなっていた伊勢神宮に七百貫を、天文十二年(一五四三)には朝廷の内裏(だいり)修繕費として四千貫を寄進しました。これらの功績が高く評価され、室町幕府第十三代将軍・足利義輝への拝謁(はいえつ)も許され、信秀は朝廷と幕府の双方から信任を得ていきます。
この頃、信秀は尾張を中心に勢力を拡大しながら、美濃(現在の岐阜県)の斎藤(さいとう)道三(どうさん)、三河(現在の愛知県岡崎市周辺)の松平弘忠、そして駿河・遠江(とおとうみ)(現在の静岡県中部から西部)を支配する東海地方最大の戦国大名・今川義元らと激しい争いを繰り広げました。
しかし、天文十三年(一五四四)、斎藤道三の居城・稲葉山城(のちの岐阜城)の山麓・加納口で道三に敗れたことを機に、織田家の勢いに陰りが見え始めます。そうした状況のなか、天文十六年(一五四七)、有楽斎は信秀の十一男として誕生しました。
翌年、信秀は三河へ攻め込むも、今川・松平の連合軍に敗北します(第二次小豆坂の戦い)。さらに、天文十八年(一五四九)には、信秀の長男・信弘が守る安祥城が今川軍に攻め落とされる事態に陥ります。
今川義元との領土争いの激しさが増すなかで、信秀は病に倒れ、天文二十一年(一五五二)に亡くなってしまいました。有楽斎はわずか六歳、信長は十九歳の時でした。
信秀の死後、織田氏内部では今川方へ寝返る者が相次ぎます。信長は各地を駆け巡ってこれらを鎮圧しようとしますが、寝返りや今川の侵攻・調略は止むことがありませんでした。
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