【前回の記事を読む】織田信長には、13歳年下の実弟がいた──信長・秀吉・家康、3英傑の陰に隠され、彼がやっていたことは…

序章 信長の弟、有楽斎――泰平の世へ至る道

慶長五年(一六〇〇)、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍として参戦します。さらに大坂の陣では、大坂城を居城とする姪・淀殿(秀吉の側室)とその子・秀頼を助けるため、家康との間に立って、二人の助命交渉に奔走しました。

しかし慶長二十年(一六一五)、大坂夏の陣における徳川方の総攻撃により、淀殿と秀頼は自刃し豊臣家は滅亡します。

そのわずか二か月後、家康は朝廷に対して元号を「慶長」から「元和」に改元させ、応仁の乱以来、約百五十年近くにわたって続いてきた戦乱が収まり天下が平定されたことを広く宣言しました(元和(げんな)偃武(えんぶ))。戦国の世で和議に奔走した有楽斎の戦いも、ここで一つの終わりを迎えたと言えるでしょう。

晩年の有楽斎は、「客をもてなすをもって本義となす」という理念のもと、独自の茶の湯の境地を切り開き、有楽流茶道を創始します。

元和四年(一六一八)、京都の建仁寺塔頭・正伝院(現在の正伝永源院)を再興し、茶室「如庵」を築いて隠棲(いんせい)し、多くの人々と交流を深めました。そして、元和七年(一六二一)、有楽斎は静かに息を引き取りました(享年七五)。

「如庵」は、日本に三席しかない国宝三名席の一つとして知られ、今もなおその姿をとどめています。有楽斎の子孫は、織田家の大名四家のうち二家を成し、その一つは現在も有楽流家元として茶の湯を継承しています。戦国の時代にあっても「和」を追い求めた有楽斎の志は、四百年の時を超えて現代に息づいています。

第一章 戦いの半生、無楽斎(楽なき人生)

初陣を果たしてから、本能寺の変で兄・信長が斃れるまでの約二〇年間、有楽斎は兄とともに戦場を駆け続けました。後年、その半生を振り返り、「楽が無かった」として、剃髪後の号を「無楽斎」にしようと考えたほどです。

信長が天下静謐を目指して繰り広げた戦いの日々は過酷を極め、その数は、六十戦以上にも及びました(注・信長の戦いに、有楽斎が戦場もしくは、後方支援を含め、すべてに関与していたと仮定して推計)。戦場での直接的な戦いだけでなく、兵站(へいたん)を担う役目も果たしていた有楽斎にとっては、気の休まる日はなかったことでしょう。