「録音データはクラウドにバックアップしてあります」私は付け加えた。
「複数箇所に。私の端末だけ押さえても無意味ですよ。念のため」
これは補足だ。
念を押せるうちに押す。手を緩めない。慈悲の心など見せない。隙を見せない。情報の非対称性を保ち続ける。それが基本だ。
相手より多く知っている状態を維持する。この原則を独学したのは中学の教室だ。いじめの構造を観察するうちに気づいた。誰が誰の何を知っているか。その非対称性を握った人間が、コミュニティの実権を握る。
教室がホテルの一室に変わっても、中学生が管理職に変わっても、構造は変わらなかった。技術は文脈を選ばない。
「お前みたいなやつが、一番怖い」
高畑が吐き捨てるように言った。
「ありがとうございます」
私は迷わずそう答えた。
怖い、というのは、相手が私をコントロールできないと認識した時に出る言葉だ。コントロールできない、ということは、私が自由だということだ。自由であることを「怖い」と評されるなら、それ以上の褒め言葉はない。アンコントロール・本山としてこの世界を躍進してやるわ。
帰りのタクシーの中で、無性に本が読みたくなった。
毎回そうだ。長く演じた夜の後は、必ずこうなる。今夜は特別長かった。笑顔も、声のトーンも、前傾姿勢も、身体も、全部設計した。設計し切った後は砥石が要る。部屋に戻ったら本を開こうと思った。タイトルはなんでもいい。ただ活字を追いたかった。設計された私を脱いで、ただ文字を読む私に戻りたかった。
感傷じゃない。道具の手入れだ。そう言い続けている。本当にそうなのかどうかは、考えないことにしている。考えてもしょうがないことがある。いや、考えてもしょうがないことにしている、の方が正確かもしれない。
でもその差を掘り下げる気分じゃないので、タクシーの窓の外を見た。深夜の都心は綺麗だ。人間が全員引っ込んだ都市というのは、案外悪くない景色をしている。
数日後、高畑から連絡が来た。
「最終面接の日程を送る」
それだけだった。一文。1次も2次もない。最終面接への直行ルート。感情が一切ない、乾いた事務的な文面。男のプライドが粉砕された後に残る実務性だ。
こういう文章を送れる人間は、感情を脇に置いて損得を優先できる。それはある種の合理性だ。合理的な人間は交渉相手として扱いやすい。感情的に動く人間の方が最終的に怖い。高畑はそちらではなかった。怖くない。
次回更新は8月12日(水)、16時の予定です。
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