「私だって、普通にしたかった」
その言葉だけが、違う温度を持っていた。熱湯を浴びせ合っていたのに、突然冷や水を浴びせられたかのような感覚。
「ママ友のコミュニティで話が合わなかった。普通の人たちと、何も共有できなかった。正しいことを信じていないと、自分が何者かわからなくなりそうだった」
それは弱者の告白だった。
コミュニティから孤立した弱者が、唯一支配できる対象に向けて力を行使する。その対象が私だった。頭では全部分かっていた。分かっていたから、胸の奥で何かが刺さりかけた。刺さりかけた瞬間、私はそれを怒りで塗りつぶした。
弱者であることは、人を壊していい理由にならない。
これだけは譲れない。
弱者だから許される、弱者だから仕方ない、そういう論理を私は認めない。認めたら、私がO中学でやられたことが許容される。認めたら、S中学で私がやったことも許容される。どちらも認められない。連鎖を断ち切るには、弱者であることを免罪符にする論理を、根っこから否定するしかない。
言い争いは更に加速した。隣人がインターフォンを鳴らしてきた。遠くから警察のサイレンが聞こえてきた。
「そんな生き方したら地獄に落ちる」と最後に本山優子は言った。
私は笑った。
「だったら今から好きに生きてやる」
スクールバッグに下着とワイシャツを押し込んで、参考書を3冊入れて、5000円しか入っていない財布を入れた。それだけだ。それだけあれば、今夜は生きられる。
玄関のドアを閉めた音が、やけにクリアに聞こえた。やってきた警察官と入れ違いにアパートを出た。
その夜、父から一通のメッセージが来た。
「お前の味方だ」とだけ書いてあった。
味方だと言うなら一緒に逃げてほしかった、という気持ちがあることは、認めたくなかった。認めたら、また何かが柔らかくなる。柔らかくなった部分は傷つく。そしてそこから菌が入ってきて膿ができる。傷が疼く。疼きは判断を曇らせる。だから認めない。認めないことにした。
父は家を出なかった。
それだけの話だ。
次回更新は7月29日(水)、16時の予定です。
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