「謝罪は結構です」と彼女は先に言った。私がまだ何も言っていないのに。
「そのつもりで話したわけじゃないので」
一瞬の緊張が走ったと思えば、彼女はその緊張を壊すようにあっけらかんと言葉を紡ぐ。その落差が胸に冷ややかな風を吹かす。
「告発するつもりもないですし」と続けた。
「大きな恨みもないです、正直に言うと」
正直に言うと、という副詞が引っかかった。正直に言わない選択肢もあった、という含意がある。でも正直に言うことを選んだ。
「ただ」
ブラシを持ち替えた。
「覚えていないだろうな、とは思っていました。最初から」
最初から。
この4文字が、思ったより深く刺さった。
覚えていないだろう、と岩塚玲子は最初から知っていた。それでも今日、仕事を引き受けた。この部屋に来た。スタッフを出した。そして確認した。覚えていますか、と。
恨みがないなら、告発するつもりもないなら、なぜ確認する必要があったのか。
「なぜ確認したんですか?」と私は聞いた。
岩塚玲子は少し笑った。今日初めて、はっきりと笑った顔を見せた。
「自分でも、よく分からないです」と岩塚玲子は言った。
「ただ、同じ部屋にいて、何も言わないままでいるのも変な感じがして」
彼女にとって、今日のこの状況は「変な感じ」だ。私はその「変な感じ」の原因だ。原因として、今日ここにいる。
私がT高校で設計した空気の中で、岩塚玲子は靴が履けなくなった。その後通信制に移った。専門学校でメイクを学んだ。家庭を持った。世界的な評価を受けた。そして今日、10年以上の時間を経て、その空気を作った人間の顔にブラシを当てている。
この構造を、私はどう受け取ればいいのか。
受け取り方の引き出しが、見つからなかった。
「そうですか」と私は言った。
完璧な声で。完璧なトーンで。
岩塚玲子はもう笑っていなかった。また一定の表情に戻っていた。上がりも下がりもしない、あの温度。
鏡の中で、2人の顔が並んでいた。
片方は覚えていない。片方は覚えている。
その非対称が、この部屋の空気の中に静かに漂っていた。漂いながら、どこにも行かなかった。
次回更新は7月26日(日)、16時の予定です。
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