5.エピソード
業界で知らない人間はいないと聞いていたから、それなりの外見的オーラを想定していた。
世界的な評価を受けているアーティストというのは、たいてい自分がそうであることを外側に滲み出させている。服装、立ち居振る舞い、目の光。自信というのは隠せない。隠す気がない人間には特に。
でも岩塚玲子は違った。
身長は低い。150センチあるかどうか。服装はシンプルで、主張がない。メイクは薄い。メイクアップアーティストにしては、という意味で薄い。過剰な装飾を嫌う人間か、自分を見せることに興味がない人間か、その両方か。
顔は、どこかで見たことがあるような気がした。
でもその『気がする』が、具体的な記憶に繋がらなかった。
業界で会った可能性。雑誌で見た可能性。SNSで流れてきた可能性。接触経路は無数にある。特定できない既視感など、日常的に発生する。処理しきれないほどの人間と接触し続けていると、顔の記憶の解像度が全体的に落ちる。有名税ならぬ有名病だ。
「本山千晴さんですね」と岩塚玲子は言った。
声は穏やかだった。緊張がない。これは珍しい。私に初めて会う人間の大半は、程度の差こそあれ、声に緊張の層が混じる。それが消えるまでに、早い人間で10分、遅い人間は最後まで消えない。岩塚玲子の声には最初からその層がなかった。
「よろしくお願いします」と私は言った。完璧な発音で。完璧な笑顔で。
「こちらこそ」と彼女は返した。笑顔ではなかった。笑っていないわけでもなかった。ただ、表情の温度が一定だった。上がりも下がりもしない。
椅子に座るよう促された。鏡の前の、撮影現場特有の電球が縁に並んだ大きな鏡。私は座った。鏡の中の自分の顔と、その背後に立つ彼女の顔が同じフレームに収まった。
その瞬間、既視感が少し強くなった。
でもまだ繋がらなかった。
次回更新は7月24日(金)、16時の予定です。
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