【前回の記事を読む】「5万ポンドくらい?」「とんでもない! 桁がひとつ違うぜ」有名な作家の草稿、その価値は“車1台分”とも言われ……
プロローグ
海外勤務でひとり暮らしをしている時に、時間さえあれば古書店を巡ることが俊郎の習慣になっている。まずヨーロッパの古い街並みを歩く楽しさを知った。
どの都市にも古書店の一軒や二軒、必ずあるものだ。
特にM古書店は、カムデン街に来たら真っ先に立ち寄る店だった。俊郎がロンドンで初めて入った店が古書店だったということもある。
M古書店はロンドン市内に二店舗を構える老舗である。一号店は大英博物館の脇にあり、文芸書や研究書が対象で、初版本も置いている。俊郎が通っているのは、カムデン二号店で、ここでは主に豪華本や画集などの希少本を扱っていた。
いつものようにショーケースを覗いたり、気になる表題の本を書棚から取り出したりしている時だった。
何気なく見上げた視線の先に、日本語で『庭園の物語』と金文字が打たれた本の背表紙が目に入った。すぐに手にとってページを開いてみた。ヨーロッパにある洋式庭園を紹介する豪華な作りの本だ。庭園風景を銅版画で印刷したものに、解説文が添えてある。古い本ではあるが、状態が良いので古書とは思えないほどだ。
一枚ずつページをめくるたびに、海外特派員生活の長い俊郎にとって、どこも一度は足を運んだことのある懐かしい洋式庭園の世界が展開する。思わず引き込まれるように見入ってしまう。しばらく眺めているうちに、これは写真集よりは、はるかに美しい版画を配した、極めて完成度の高い本であることに気付いた。
(こんな素晴らしい本を作った日本人は?)と独り言のように呟(つぶや)くと、奥付を開いた俊郎の目が釘付けになった。
「発行人今泉(いまいずみ)龍平(りゅうへい)」
〈おや、亡くなった父と同姓同名か?〉
著者は山崎(やまさき)孝太郎(こうたろう)、装丁は山田(やまだ)慎治(しんじ)、銅版画作家の山田(やまだ)峯(みね)が名を連ねている。
〈そうだ、この山崎孝太郎という名前だけは見覚えがある。父の書斎の書棚にあった古いアルバム。そこに父と並んで写っている眉目(びもく)秀でた長身の男性に山崎孝太郎と注が付けてあった。確か戦前に、父のヨーロッパ旅行に同行した人だと母が言っていた。驚いた、やっぱり父の今泉龍平に違いない。
そういえば物心つく頃から、父の書斎にあった欧州旅行のアルバムは、名所旧跡の写真を期待してページを開いても、なぜか庭園の写真が多く、子供心につまらないと感じていた。そうすると、あれは、この本の準備のために撮ったものだったのか?〉
俊郎は、出版された日付を見た。
昭和十二年(一九三七年)。
第二次世界大戦前夜の、それは確か父が欧州旅行をしたと言っていた年だ。
〈父は、生前こんな本があることを僕に話したことはなかった。自慢していいはずなのに何か、言えないわけでもあったのだろうか?〉