古代日本の王族男女は、近親婚をくり返し、一族の絆を強めるとともに、父方母方双方の血統に裏付けられた権威と権力を強めていった。

双系社会では、地位継承の機会も男女均等に与えられた。有能でリーダーの資質があれば、男女の別なく地位を継承できたのである。

応神天皇・神功皇后の頃、明らかに社会の変革(継承の考え方の変化・女性の政治参加)が起こっている。王朝交代があったと考えるべきであろう。

すなわち、筑紫にあって邪馬台国の継承者であった応神天皇・神功皇后の東遷によるものであり、神武~仲哀と受け継がれていたヤマト王権の征服である。

そして、第三の根拠は、『三国史記』ならびに『日本書紀』「神功皇后記」に求めたい。

朝鮮半島の正史である『三国史記』は、戦乱のなかにあった中国の史書において日本に関する記述が途絶えた時期のヤマト王権の様子を伝える有力な史料であり、「神功皇后記」には、『魏志』などから「倭の女王」についての記述が引用されている。

両書を参照すると、新羅を征伐するとともに百済と交流した倭国は同一王朝である。ところが、仲哀天皇までのヤマト王権が新羅を征伐し、百済との外交を行った気配はない。

つまり、ヤマト王権とは別に、朝鮮半島の国家とかかわりのあった王朝があったのではないか。

それが邪馬台国の流れを汲む九州の倭国であり、応神天皇の東遷以後、外交の主体は九州の倭国からヤマト王権に移ったのではないか。

邪馬台国以前の紀元一〇〇年頃の倭国の中心は、後漢に使者を派遣した「漢委奴国王」帥升であり、そこから王朝が連続したと考えると、倭国は筑紫中心とするのが妥当である。