1937年、広島市に生まれたMさん。彼は1945年8月6日、広島市の上空から、原爆が落ちてくるのを見たという。

すっかり遠い昔になってしまってからも、自身の網膜に焼き付いて離れない――。そんなあの日の情景を、彼はこう語っている。

原爆が落ちてくるのを見た

朝から快晴で雲一つない、抜けるような青空が広がっていた。

Mは医者にもかからず晴雄がくれた赤チン治療だけで左足裏の深手もふさがり、やっと癒えた。あれは杖なしで左足を引きずるようにして登校した1945(昭和20)年8月6日の朝のことだった。

学校に着くと、すでに定例の8時開始の朝礼が始まっていた。

Mは慌てて校門脇にある二宮金次郎の像の前に立った。校長の朝の挨拶が終わると、生徒一同、男は木刀、女は竹槍を持ってきて、薩摩芋の畑にされている運動場の畦に並んだ。

朝礼台の上に立つ男の先生の号令に合わせて「ええい、や! ええい、や!」と木刀を振り、竹槍を突き始めた。

Mも遅ればせながらも木刀を構えて振りかざそうとした。そのときB29の爆音が聞こえてきた。

ふと上空を見上げると、落下傘が1つ黒っぽい筒のようなものをぶら下げて落ちてきた(平山画伯は3つと書いているがMが見たのは1つだけだった)。一瞬の奇妙な光景が、Mの脳裏に焼きついた。何だろうと思った。

朝礼台の先生が飛び下り、大声で「逃げろ! 教室へ」と大声で叫んだ。生徒たちは一目散に駆け出した。

その瞬間、辺りが急に明るくなって、ピカッと強い光線が走った。

「写真うつしたど!」と誰かが叫んだ。

間髪を入れずドーンと地面を揺るがすような轟音が響いた。

原爆はピカ・ドンで落下した

まさにピカッと光って、ドンだった。その直後に南西方向にある山の上に、もくもくと白い雲が立ち上ってきて、きのこの形になって大きく広がっていった。Mは足が、まだ不自由で皆と一緒に駆け出せず、一人だけ遅れた。

初めて見る巨大で異様なきのこ雲を見つめながら、ゆっくりと教室に向かって後じさりした。まだ走ると足の裏が痛かったお陰で駆け出せず、まざまざと一生忘れることのできない瞬間的な情景を、しっかりと両眼に焼きつけることができたのだった。Mは直感的に広島市に新型の爆弾が落ちてきたのではと思った。

引っ越しの際、トラックの運転手から聞いたところでは、広島市から山県郡の八重までは直線距離だと20キロくらいだが、山や谷をくねくねと走ってくると2時間半もかかり、走行距離は2倍の40キロにもなるということだった。

母は松根取りの勤労奉仕へ

その頃、Mの母たちは朝の涼しいうちにということで早起きして隣組の婦人部隊で近くの山のなかへ松根取りの勤労奉仕に駆り出されていた。

そこから、母たちはもくもくと立ち上がるきのこ雲を見やり「なんじゃろうね」「へんてこな雲が上ってきよったよ」と見上げながら八重国民学校に大きな爆弾が落ちて、子供たちが死んでいるのではないかと心配して泣き出した。

Mは学校が早退になって家に帰ると、待ち受けていた母が抱きついてきて、「良かった。良かった。学校がやられたんじゃないかと思うたんよ」と、たがいに元気だったので喜び合った。