【前回記事を読む】町中が僕のフィールドだった。大人たちが「元気があっていいね」と笑いながら声をかけてくれたが、数年後、周囲から「落ちこぼれ」と揶揄された

1 落ちこぼれ全開―不遇の学生時代―

昭和のおもちゃ箱

漁協には800名を超える組合員が名を連ね、大漁旗を掲げた木造の漁船が湾内に所狭しと並んでいた。港の一角には、まるで町の誇りそのもののように、漁協会館の堂々たる建物が海を背にそびえていた。海も人も暮らしも、すべてが等しく混ざり合い、一つの風景を作っていた。

父が医師として勤めていたのは、駅前にある病院だった。そこは、父を含む4人の兄弟――いずれもひと癖もふた癖もある個性派たちが地域医療を支えていた。

この病院の始まりは、明治時代にさかのぼる。もとは曽祖父が一人で始めた小さな医院にすぎなかった。だが、祖父がまだ幼い頃、次々と兄弟たちが養子に出され、家族がバラバラになっていく中で、ただ一人跡取りとして残された長男の祖父は、長く寂しさを抱えながら育ったという。

「自分の子どもたちには、絶対にそんな思いはさせたくない」それが、祖父の揺るぎない信念だった。だからこそ彼は、4人の息子すべてを手元に置き、それぞれを医師として育て上げた。そしていつか、自分の子どもたちが力を合わせて地域に貢献できる場所――病院を造ることを、生涯の夢として描き続けたのだ。

父はその4兄弟の末っ子だった。若い頃は関西で医師として修行を積んでいたが、祖父の強い思いに応える形で、病院建設を前に地元へ戻ってきた。長男は整形外科、次男と三男が内科、外科、四男の父は外科だった。それぞれが専門性をもってバランス良く連携し、病院には常に活気があった。

僕から見た父は、人望があり、面倒見が良く、そして何より誠実な人だった。深夜、急変した患者からの連絡があれば、ためらうことなく白衣を羽織り、冷たい外気の中を駆け出していく。その後ろ姿は、幼い僕の目にはまるでヒーローのように映った。

多忙を極め、子どもの参観日や運動会にはほとんど来られなかった。

それでも、正義感を身にまとい、誰かの命のために立ち向かう父の姿に、僕は自然とこう思うようになった――いつか自分も、こんなふうに人に必要とされる医師になりたいと。

昭和のあの頃、日本はまさに上り坂の途中にあった。経済成長の追い風に乗り、国全体が終わることのない夢を見ていた。医療の世界もその渦中にあった。いや、むしろ、その波を堂々と乗りこなしていたと言っていい。

新薬は次々と市場に投入され、学会は日々、新たな希望と興奮に包まれていた。医療機器の進化も目覚ましく、最新機器や新薬の話題が飛び交い、医師たちは皆、自分たちが華やかな時代の最先端にいるという実感を持っていた。