この大庭御厨へは、後に頼朝の父、源義朝が2度にわたって侵入したことでも知られている。

1度目の侵入は、1144年(天養元年)9月、当時、義朝の名代を務めていた清原安行(やすゆき)らが在庁官人と共に大庭御厨の鵠沼郷(現在の藤沢市鵠沼と鵠沼神明一帯)に乱入し、神宮に捧げる魚や田畑の作物を奪い取ったうえ、深夜に再び大勢の軍兵を引き連れて来襲し、郷の住人を捕縛し、抗議した烏森(からすもり)皇大神宮の神官を撲殺したりしている。

この烏森神社は私が通った神奈川県立湘南高校のすぐそばにあった思い出深い所で、昼なお暗い森を抱くこの神社は授業をさぼって昼寝するには絶好の場所だった。

話を戻して、2度目の侵入は、翌10月下旬、丁度稲の収穫が終わったあとを狙って、今度は義朝の名代だけではなく、三浦氏、中村氏、和田氏など相模の武士団も加わったより大掛かりなもので、御厨の境界を抜き取り、収穫された稲や、御厨の下司だった平(大庭)景宗(かげむね)の家にあった財産を奪い取り、神人七人を捉えて半死半生になるまで責めつけている。

随分とひどいことをしたもので、伊勢神宮の訴えによって朝廷は御厨側の言い分を認めて、義朝らの乱行を停止し、犯人を逮捕するよう宣旨を発している。

しかし結果的にはうやむやのうちにことは終わってしまい、10年ほど後に都で起きた「保元の乱」においては被害にあった大庭景宗の子である大庭景義(かげよし)・景親(かげちか)兄弟は義朝の配下で戦っている。

少し腑に落ちない話だが、義朝はこの乱暴な侵入によって大庭一族を服従させることに成功したことになる。