【前回の記事を読む】腹違いの弟・清衡との所領の折半を拒んだ家衡。本流がゆずるとでも? 不服である。弟の妻子を殺害し、かくして「後三年の役」が始まった
その一 鎌倉権五郎景正 ~御霊神社~
今も地元の人々から敬愛される、勇猛で心優しき鎌倉のレジェンド
3.大庭御厨(みくりや)の開発
勇猛な武人であった景正は、当時の東国武士のもう一つの素顔である荘園の開発者としても大いに力を発揮した。
十二世紀はじめ、既に30代の壮年に達した景正は、今の藤沢市大庭の付近一帯の山野を開発。これを伊勢神宮に寄進し、神宮の荘園である御厨としている。
この大庭御厨は、東は今の境川、西は相模一宮の寒川神社の神郷との境、北は藤沢市遠藤から東方の亀井野あたり、南は相模湾の海岸線と、東西約9キロメートル、南北約7キロメートルという広大な地域であった。
伊勢神宮に貢納された進物も多様で、田畑で採れた米や作物、白布などの手工業品の他、地域柄、長鮑など相模湾でとれた海産物などもあったようだ。ここは彼が所領する鎌倉からやや西に外れた辺境の地だが、この地域の開発を進め、新しい農場を創設することで、みずからの支配する領域を拡大・強化することが景正のねらいであったと思われる。
私の通った小学校は藤沢市辻堂の藤沢市立八松小学校だが、放課後にはよく友達とタモをもって自転車を飛ばして大庭に行って、小川や田んぼの用水路でフナやメダカ、オタマジャクシなどをとったものだ。引地川流域のこの辺りは、今も田畑が広がり、引地川親水公園や大庭城址公園など自然豊かな市民の憩いの場となっている。