ここは中国残留孤児を見つけ出し、政府を動かした山本慈昭(じしょう)さんの活動に端を発した団体だった。
学生時代に中国語を齧(かじ)ったことがあるし、もともと中国には関心があったからある意味うってつけだった。
そしてついに中国の大学で日本語を教える機会がやってきた。2010年、サラリーマン生活に終止符を打った63歳の時だが、国語や英語の元教師のために日教組の槙枝元文さんが作った「日中技能者交流センター」の募集に手を挙げ、中国浙江省金華市にある浙江師範大学に派遣された。
本来元教師のための組織だったが、教師出身でなくても日本語を教えた経験があればよいとの当時の「規制緩和」の流れのおかげで名古屋でのボランティアの経験が生きた。
人生何が幸いするか分からないものだ。この時の楽しい経験は前著『来た、見た、分かった! ホントはとってもフレンドリーな中国の人たち』(市田印刷出版)に詳しく書いた。
なお先方からはもっと長くいてほしいと言われたが1年で帰国したのは、いろいろ事情はあったが、その1つが2冊目の著書『聴いてびっくり漢字の世界─日中韓越の漢字音はこんなに似ている』(風詠社)を早く完成させたいという気持ちだった。
帰国後しばらくは地元のボランティア団体で外国人に日本語を教えたほか、規模の小さな日本語学校でアメリカ人ビジネスマンを相手に個人教授をした。
この生徒がアメリカに帰国すると仕事がなくなったので、もっと大きな日本語学校で大勢を相手に教えたいと思い、今の日本語学校に就職したのが2014年である。
(2)就職活動は簡単ではなかった
日本語教育能力検定試験には合格していたし、浙江師範大学で教えた経歴もあるし、日本語学校の採用試験にはすぐ受かると思っていた。
だが、世の中甘くはない。まず履歴書を送り面接と模擬授業の知らせを待つが、履歴書段階で相次ぎ不合格だった。
理由は年齢。しかし定年を確認してからも結果は同じだった。「履歴書は単なる履歴、熱意などは面接の時に話せばいい」と思ったのが甘かった。
何しろ氷河期など無縁の就職天国時代の人間だから大甘である。それに気づいてからは、履歴書を送付する時、意気込みを付け加えた。
すると2つの学校から面接と模擬授業の通知が来て、両方から内定通知が来た。どっちにしようか。
「上場大手学習塾の子会社」(近年多くの日本語学校が買収されている)か「中国人女性経営のちっぽけな会社」(日本語学校は大半が会社)か、「立派なビルのフロア」か「飯場だと思って一度は通り過ぎたプレハブ校舎」か、「事前の研修に参加できますか」か「すぐにでもシフトに入れますか」か等々2つは対照的だった。
常識的には選んで当然の前者ではなく、事情もあって後者に就職したのだが、結果的には後述するように大正解だった。
なお、就職して10年以上お世話になっているこの学校を以下「スバラシ日本語学校」(仮称)と呼ぶことにする。
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