やがて、下沢看護師の報告が上がった。

伊吹は不安を覚えた。難問症例のややこしさが増しているのではないか─。伊吹は真鍋に言った。

「この症例は本当に難問ですよ。疼痛緩和もややこしいし、家族関係も複雑。患者側が相手を見て話しているようにも見える。僕は“患者さんが『自分の人生も悪くなかった』と思えること”が一番だと思っているけど、どうだろう」

真鍋は答えた。

「はい。いつも先生から聞いている言葉ですし、私もそう思います。でも娘さんの感情は全然違う。『家にずっといたい』という本人と、『それは困る』と考える娘さん─合わせどころがないですよね」

「そう。僕も昔は“本人中心”を絶対視して、家族をばらばらにしてしまった経験がある」

「えー、そうなんですか?」

「夫婦のケースでね。夫は『ずっと家にいたい』、妻は『もうとても見られない』。僕は妻を“説得気味”に対応してしまった。するとある夜、妻が救急車を呼んで、緊急入院を求めた。

救急隊から『今から運びます』と連絡があった時、『本人は同意していますか?』と聞くと、夫は興奮状態、妻は『先生は全く私たちの話を聞いてくれないので任せられない。救急車で運んで』と。

救急隊も戸惑ったが、本人の意思が明らかでない以上妻の言うことは絶大である。きっと信頼するに足りない在宅主治医として救急隊には映ったであろう。……結局、夫は救急搬送され、家に戻らなかった」

今の伊吹なら、容易に判断できたであろう。本人が言っていた、自分は家にいたいという言葉は、安心して見てくれている妻のもとがよかったのであろう。あの時大事だったのは“本人中心”より、“最後まで自分らしく生きる”ということ。

『どうすればいいでしょう』と妻の前で夫に尋ねれば、彼はきっと『入院する』と自分で決めただろう。それが彼の“自分らしさ”の連続の流れだったのだろうに、その言葉を待たずに、無理やり運んだことになってしまった。

「そんなことが……。伊吹先生でもあったんですか?」

「だけど今でも騙しての入院はよくないと思っている。そう“騙す”のはよくない。……僕も“お顔を見たくなった”と言って、また一緒に訪問診療に入ろうか」

「嬉しいです。本当に助かります。私には何も言ってくれないから」

 

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