中学校では教師たちは皆優子の、つまり俺たちの家の事情を知っていたらしい。お蔭で面倒くさい告白が省略できた。おまけに先生は、わたし、妹さんのこと知ってる!とじつに嬉しそうに言ったのだ。
「優子ちゃんと、一度二人だけで話したことがあったわ。わたし、読書クラブの顧問をしていたの。放課後のクラブ活動が終わって職員室に戻る途中だったと思う、廊下で優子ちゃんに呼び止められた。
当時はテニス部に所属していたみたい、白いスコートはいて、そこから長い太腿が遠慮もなしにニョキって伸びて、腕も足もすっかり日焼けして、なんの屈託もない中学生にしか見えなかった。
先生ちょっと教えていただきたいことがあるんですがって……腰をこごめてもこっちを見下ろす感じだったけど、かわいかったなぁ。それでどんな質問だったと思う?」
「……」
「歎異抄(たんにしょう)。びっくりした。手にしているのはやさしい口語訳だったけど、今どきの中学生で、しかも体育会系で歎異抄だもの、いったいなんだろうって思ったわ」
「ウソだろ。あいつ、家ではファッション誌ばかり眺めてたぜ。買えもしない服を熱心に眺めてどうするんだって、言ったことがあるよ」
「ね、歎異抄の中に、親鸞が弟子に向かって千人殺してみよって言うところがあるの知ってる? 弟子の唯円が、そんなこと、浄土へ往生間違いなしとわかっていても、とてもできないと尻込みするの。
親鸞はそれを受けて、できないのは心が善いからではないとぴしゃりと返す。逆に悪をなすのも、悪への意志があってなすものではない、というわけ。善行も悪行も、本来個人が自分の意志だけでするものじゃないってことなの」
「……」
「優子ちゃんはね、そこのところがどうもよくわからないってわたしに訊いてきたの。……本当に困ったわ。古文の文法や時代背景や、そういったことは教えることができても、浄土真宗の教えについてなにか言う資格、信仰を持たないわたしにはないもの。資格がないどころか、わたしにだってよく意味がわからない。
咄嗟に、宿業(しゅくごう)ということに絡めて教師らしい説明をしてお茶を濁そうと思ったけれど、優子ちゃんの真剣な様子を見ていると、その場しのぎになにか言うことは許されないと思った。優子ちゃんの家庭の事情を知っていたから、なおさらだったわ。
だから正直に、先生にもよくわからないって答えたの。そのとき、優子ちゃんの真剣なまなざしがふっと緩んだ。なーんだ、先生にもわかんないのかって」
次回更新は5月5日(火)、20時の予定です。
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