【前回記事を読む】図書館で1度見かけただけで、一目ぼれした女の子がベンチで昼ご飯を食べている。思わずひろしは隣に座り…
風の部 霧は、アンダンテで流れ行く
第二章
杏子は入学と同時に女子寮に入ったのだが、女子寮というところがなんとなく居心地が悪かった。一人暮らしになんとなく憧れていたのだろう。アパートに入居したかったが、杏子の両親は賛成しなかった。ところが1年ほど経った頃、父の長期の海外出張が決まり、母もそれに付いていくことになると、アパートへ引っ越すことが許された。
初めての一人暮らし、杏子はそれだけで心ときめいた。ところが3カ月も過ぎないうちに、部屋に一人でいる事を寂しく思うようになってきた。
あのベンチで会話してから、ひろしと杏子は、時々会っていた。そして二人がアパートで一緒に過ごし始めたのは、初夏のそよ風がキャンパスを吹き抜けていた時期だった。
ひろしは、相変わらず講義や麻雀やアルバイトの繰り返しの毎日だったが、仲間と安い酒場で飲む機会が多くなった。コンパといっては、大学のクラブ活動で色々な部活に出たり入ったりして知り合いをつくって、安酒場で友人と飲んだくれては、それが大学の青春だと思い込んでいた。
コンパの帰り、夜遅くにアパートに帰ることもあった。そのうちに、泥酔して帰ることが増え、たまに二日酔いの朝を過ごすようになった。
休日の朝、ゆっくり起きてから二人で近くの喫茶店へコーヒーを飲みに行き、帰りに小さな公園のベンチに座った。杏子は足下の片隅に咲くスミレを見つけた。
「可愛らしくて、きれいね……なんていう花かしら?」
「えっ! スミレだよ。知らないの?」
バカにされたような言い方に、杏子は少しむっとしたが気をとり直して、
「そうなの……名前は知ってたけど、この花がスミレだって実際に見るのは初めてみたい」
ひろしが小さい頃、祖父が「スミレは大工の使う墨入れに花の形が似てるからこの名になったんだよ」と教えてくれていた。