「客にもう来たのはないだろう。六時四十五分からここにいるよ。開店時間を律儀に守ってあげてるんじゃないの。ほら、モデルさん、入って、入って」

男がドアを押さえたまま手招きするので、あたしは銀髪の老人に用向きを伝えることもせず誘われるまま店の中に入った。

縦に細長い小さな店だ。窓がない。冷房が効きすぎている。カウンターやボックス席にくつろいでいた五、六人のホステスさんたちが、形状記憶合金のようにいきなり背筋を伸ばし、あらぁ、と声を合わせた。皆いっせいに立ち上がる。小さな男を取り囲むようにして奥の席へ塊で移動していった。

あたしは銀髪の老人に「セリナさんを訪ねてきたんですが」と早口で伝えたが、マスターと呼ばれた老人は棚のウィスキィのボトルを手に取ると、こちらを振り向きもせずに「セリナ、お客さん」と奥へ声をかけた。

そっけない応対だったが、迷惑がられている様子はない。それどころか、小さな保温器からおしぼりを二本取り出し、一本をあたしのすぐ前のカウンターに置いて、なにか飲んでなさい、と言ってくれた。

カウンターに座って、お水でいいですと言ったのに出てきたカンパリソーダを飲んでいると、若旦那を取り囲んでいる女の人の一人がこちらを向いて立ち上がった。

真っ赤なキャミソールタイプのドレスを着た大柄な、といってもあたしよりは数センチ背の低いように見える女の人が、大股にこちらへ歩いてくる。肩で風切るというより、腰で風を切るような歩き方。

顔のつくりが派手なうえに化粧が濃いので、パッと目にはすごい美人に見える。だが近づいてくると、顔中にそばかすが散らばっているのが濃いファンデを通してもわかった。

鼻が高いのか低いのか、目が大きいのか小さいのか判断のつかない不思議な美貌で、目付きに剣がある。

まったく、おにいちゃんの女性の好みって間口が広すぎない? などと思いながらあたしはスツールから降りて佳香さんに深々とお辞儀をした。

「ごめんなさい」

「ったく、しょうがないわねぇ」声は怒っていない。

じつは昨夜店に電話を入れて、今日尋ねてもいいか訊いたのだ。佳香さんはそれは困ると言下に拒絶し、それではおにいちゃんの住所を、と頼むと、これも教えてくれなかった。それで電話口では大人しく引き下がった。

電話をしたのは、今日佳香さんが出勤するかどうかの確認だったので、しおらしく電話を切ったという次第。あたしはいつからこんな奸計(かんけい)深くなったのだろう。

次回更新は4月30日(木)、20時の予定です。

 

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