合唱もオーケストラも全パートが で延ばすのだが、ティンパニーのトレモロだけがffからpヘとディミヌエンドするのである。これに対して岩城氏はこう反論する。

ベルリンの国立図書館にある第九交響曲の自筆譜の写真版を見ると、この部分で一般に行われている(ブライトコップフ&ヘルテル社版やオイレンブルク社版等)ティンパニーのトレモロをディミヌエンドさせる表示がない。

だから、自筆譜に従ってティンパニーをffのまま、叩き続けさせるというのである。

後に発刊されたベーレンライター版はディミヌエンドの表示がないし、録音で聴くとトスカニーニやジョージ・セルもディミヌエンドしていない。

しかし一方、プロイセン国王ヴィルヘルム三世に献呈した版には、ティンパニーだけではなく、「全オーケストラがディミヌエンド」と書かれてあるのみならず、「合唱はクレシェンド」とまで書かれており、クルト・マズア指揮の録音はこれに従っている。

この問題は、かねて議論が多かったもののようで、その詳細が音楽学者・藤本一子氏の「《第9交響曲》の楽譜とベーレンライター版が提起する問題」( 国立音楽大学「音楽研究所年報」第17集2003年度)に、自筆譜から、ウィルヘルム三世献呈版のパート譜まで詳細に事例分析をされている。

こういう芸術作品の急所となるような部分の解釈については、楽譜という物的資料や演奏実務の観点からの推測だけではなく、作曲家がその箇所でどのような感懐や効果を打ち出したかったかという観点からの思考が重要な要素として重んじられるべきであろう。

大作曲家といえども、複雑、膨大な近代オーケストラの発する音響を完全に想定して譜面にできるものではないようだ。

ブラームスやマーラーも、初演のリハーサルの過程や、初演を聴いた後で、適宜譜面を変更しているし、ブルックナーにいたっては、初演後、聴者の意見も取り入れて、かなり大幅な改訂を行っている。

ベートーヴェンの場合も、多分、変更した方が、当初想定した合唱の効果がよりよく表現できると考えた(聴力の弱かったベートーヴェンの場合は、信頼できる聴者や演奏当事者の意見を聞いた上でのことだろう)のではないだろうか。

この変更について、先に述べたクルト・マズアの場合、「人間の声の前に器楽が立ち尽くす」と解釈している。

またワインガルトナーは「ある指揮者の提言─ベートーヴェン交響曲の解釈」(糸賀英憲訳、音楽之友社 1965)のなかで、「ティンパニーは最初の間だけffでトレモロを演奏し、永遠なるものに近づくのを恐れおののくかのようにpへディミヌエンドするのである。」と書いている。

【推薦CD】・ベートーヴェン 交響曲第九番ニ短調(O・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団/K・シューリヒト指揮 パリ音楽院管弦楽団/K・マズア指揮 ゲヴァントハウス管弦楽団/G・セル指揮 クリーブランド管弦楽団)