やや間を置いて男は乾いた喉を振り絞るように言った。
「結核でしょうか?」
当時はまだ結核を心配する人が多かったが、いつの頃からか主役は肺癌に変わっていた。そしてそれは紹介医が癌を結核と誤診した時代から結核を癌と誤診する時代に移っていった頃と時を同じくしていた。
教授は不安なまなざしを送る男の目を覗き込むようにして威厳と説得力に満ちた声で答えた。
「結核も可能性はありますが、他にもいくつもの可能性がありますので今の時点では何とも言えませんね」
男は特に表情も変えず頷き、教授に一礼し、「わかりました、よろしくお願いします」と言った。
男は教授の意図を察した外来看護師に導かれて、採血室に向かって部屋を出て行った。
男が採血室に入ったことを確認して、教授は部屋を出ようとする妻を手招きした。そして、妻の精神状態を推し量るようにじっと目を見つめ、やがて口を開いた。
「近所の先生から何か聞かれていますか?」
「レントゲンが曇っていると聞いていますが、それ以外は何も」
妻は怪訝そうに答えた。
おそらく教授は妻に悪性の可能性を説明するのは時期尚早と感じ取ったのであろう、「お話ししたように肺に影があって少し水が溜まっています。原因がわからないので入院して調べましょう」と告げるにとどめ、私の方に向き直り入院申し込みをするよう命じた。
一週間後、妻に付き添われて男が来院した。入院は初めてのようで緊張している様子だった。受け持ち看護師が病棟を案内し、入院カルテに記載する事項の問診が済むと彼は6人部屋に向かった。
入院時点ではまだ世間の匂いを残しているが、2~3日も経つと入院患者が板についてくる。これは不思議なもので世間ではいくら地位のある人でも入院してしまうと独特の雰囲気を醸し出してくる。医者、看護師対患者という図式になり、患者はある意味、弱者、被支配者になってしまうのだ。
この時代は医療サイドが情報を独占し、一方的に医者が治療方針を決め、患者は詳しいことがわからないままに従わざるを得なかったゆえだろうか。
次回更新は4月15日(水)、8時の予定です。
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