〈附記3〉

本文の補足ですが、藤右衛門家が末松・セキ一家の経済的困窮を見るに見かねて、一時的なつもりで末治を預かった可能性もあるのではないでしょうか。

これなら戸籍の問題が棚上げされていたことや、高齢になって末治を育てた理由にもなります。

翌明治40年(1907)に多喜郎が小樽で亡くなったことで、多喜二たち一家は小樽に移住することになりました。結局、末治はそのまま佐藤家で育てられたという考え方です。

いずれにしても、すべての謎が解明されたわけではありません。

〈附記4〉

図4に示した新聞形式の記事には「小林家略図」として家系図が書かれています。

ここには「安倍彌吉校長の養女クニの子として善高(三ツ星製菓常務)」とあります。

第5章で詳解しますが、これは間違いです。クニは養女ではありません。未亡人になった後のイマに、クニの娘スミが養女になりました。

著者は小林家のことをよく知っていながらも、何らかの確実な資料を基にしているわけではないということです。聞き知った範囲に頼って書いた内容であり、著者はそんな距離にいた人物です。間違い自体が問題なのではありません。

「安部家を辿って1」の中に安部彌吉校長にまつわる記事、「安倍彌吉校長のことども」が載っています。

これの著者は小林三知雄です。

文中に「奥さんのイマは……くに(川口の佐藤本家)養女とし、その娘ツネの……」とあり、同じ間違いがあります。小林三知雄が書いた冊子として「旧下川沿村郷土読本人物編」もあります。これは「小林多喜二に関する新聞形式の記事2」の2年後(昭和55年)に書かれたものです。

この中には内容だけでなく、多喜二について説明する言い回しにも共通部分があります。

これらのことから、この新聞形式の記事2の著者は小林三知雄の可能性が高いと思われます。

〈附記5〉

本文で提示した新聞形式の記事2を図4から読み取るのは困難かもしれません。

その中で「一族について」という部分は重要なので引用文として書き出します。