君はギリシャ神話のパンドラの匣(はこ)という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。
太宰治『パンドラの匣』より
序章 巡る季節
新米教師
1
暖かい春風に包まれて、眠たそうに走る電車は一時間ほどでD町の小さな駅に着いた。青山純(あおやまじゅん)は電車を降りると、駅前から古ぼけたボンネットバスに乗り換えた。後ろの席に座るのを待っていたかのようにバスは発車した。青山はこの春から、この町にある小学校に赴任する教師である。
長いこと使われて傷みの目立つオレンジ色のバスは、小学校のある地域に向かって走り始めた。バスには運転手と車掌の他に和服の女と大きな風呂敷包を持った男、それから学生服にきちんと学帽をかぶった中学生が乗っていた。
和服の女は青山がバスに乗ってきたときから品定めでもするように青山を見ていたが、目が合ったら頭を下げて笑顔で「こんにちは」と挨拶した。青山は地元の人に対してなんと云ったら良いのかわからず、恐縮して黙って頭を下げた。この様子を見ていた風呂敷包の男は、まるで挨拶をする機会を失したかのように手にしていた新聞に目を落とした。
駅前通りを走るバスの車窓からは、食堂やら薬局、酒屋などの小さな店が連なっているのが見える。青山が車内に目を移すと、和服の女と風呂敷包の男が何やら話をしていることに気づいた。寒さが去り春になってよかったなどと、たわいのない会話を交わしている。