第一章──新生明治

サトウが賜暇で明治2年2月24日に帰国したあと、

新生明治時代では八重山艦のセイリーズ号臨検問題、英領植民地の改正条約や日本人の海外移民に対する反発、

閔妃(ミンピ)暗殺事件と朝鮮における日・清・露両国の勢力争い、

台湾での英国商社の権利保護問題(後述)、横浜居留地で起きたカリュー氏毒殺事件、

日本の金本位制をめぐる問題、ドイツの膠州湾占領とロシアの旅順占領、

日本の改正条約の実施等々、いろいろ困難な問題が次から次へと起きた。


[注1]中井弘(なかいひろむ)

薩摩藩士、脱藩して後藤象二郎や坂本龍馬らと交流、慶応2年11月、土佐藩士と共に英国へ密航、帰国後は宇和島藩周旋方として京都で活躍。パークス公使襲撃事件では後藤象二郎とともに、襲撃犯を撃退し、ビクトリア女王から飾りのついたサーベルを寄贈された。鹿鳴館の名付け親。仲間から太鼓持ちの異名をもらう。

[注2]木戸孝允(きどたかよし)

長州藩士、明治維新の三傑の一人。

[注3]岩倉具視(いわくらともみ)

孝明天皇の侍従長。

[注4]大隈八太郎(おおくまはちたろう)

佐賀藩士、八太郎は大隈重信の幼名。新政府では大阪府知事や参与、明治6年の征韓論争に敗れ下野。後、板垣退助らと民撰議院設立建白書を提出、自由党の結成に加わる。明治14年政変で失脚、明治15年立憲改進党を組織する。東京専門学校(早稲田大学前身)を創立。第一次伊藤内閣、第一次黒田内閣の外相として、条約改正に関与。第二次松方内閣の外相兼農商務相、明治22年、黒田内閣の逓信相、第一次山縣内閣、第一次松方内閣で逓信大臣、第二次伊藤内閣で農商務大臣。明治31年憲政党を組織し、第一次大隅内閣首相に就任した。明治40年政界を引退したが、のち復帰、大正3年第二次大隅内閣首相となる。慶応4年(1868年)3月23日、パークス公使暗殺を企てた浪士と切り合い、ヴィクトリア女王から中井弘とともに飾りのついたサーベルを頂く。

[注5]町田久成(まちだひさなり)

通称町田民部、薩摩の英国留学生、19歳で江戸の昌平坂学問所に就学、帰郷後、元治元年、薩摩藩開成所を小松帯刀(家老)、大久保一蔵(側役)との連名で設立。同年の禁門の変に六郷隊(兵士600人)の隊長として参戦。翌年英国留学生15名の学頭(サツマ・スチューデンツ)として留学UCL法学部の聴講生となる。明治元年に帰国。外務大丞、文部大丞、内務大丞、東京国立博物館の初代館長。元老院議官、後に出家して、滋賀県三井寺光浄院住職。丞は輔(すけ)の下。国立博物館裏庭に顕彰碑がある。享年59歳。

 

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