【前回の記事を読む】大政奉還があった年、サトウが長崎訪問中に、浦上村では多数のキリスト教教徒が逮捕された。キリスト教は魔法か妖術の類と見做され…
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キリスト教解禁、耶蘇教禁令について
ハリー卿は、信仰の自由は文明の証拠であると半駁する。
そのあと、中井弘[注1]とサトウで長い時間、この問題について話し合いをし、法令では特にキリスト教と名ざさずに、単に有害な宗派の禁制とすべきであると提言した。
しかし、日本政府が、この禁令の撤廃を行う意思のないことは明瞭であった。
なぜなら、これを撤廃すれば、布教態度があまりにも積極的なために嫌われていた、長崎のローマン・カトリック宣教師に対して、行動の自由を認めることになるからである。
ハリー卿も何とかこの問題を解決しようと、その翌日、三条実美(尊王攘夷派の公卿)、伊達(宇和島藩藩主)、後藤、木戸孝允[注2]などと再度会見する。
中井はサトウに向かって、「彼らは独裁権がないのであまりあてにならない」と話す。
日本側もこれを邪宗門と書いたことは、間違いである事を認め、この字句を改めることを申し出た。
その結果については、日本側は何一つ発表しなかったが、それは、キリスト教を黙認する結果ともなった。
5月24日、ハリー卿は前回の閣員と今度は岩倉具視[注3]と、初めて顔を見知った肥前の若侍、大隈八太郎[注4]も加わっての討論となった。
しかし、他の諸外国外交官の共同抗議も効果なく、長崎浦上村、老若男女4000人の日本人を、他の地方へ追放する処分が断固として実行された。
同年12月21日横浜の公使館で、大隈八太郎、伊達宗城、東久世、小松帯刀、木戸孝允、町田久成[注5]、池辺五位(柳川藩士)などと大会議がおこなわれた。
議題の第一は、山口範蔵(外国官判事)を軍艦で函館まで送り、函館の反軍の首領(榎本武揚ら)と談判させること。
第二はキリスト教問題であり、木戸とハリー卿との間で大激論があった。
結局ミカドの思召で、キリスト教徒を寛大に処置するという意味の覚書を、外国公使たちに送ることを約束させた。