その後、サトウが帰国する直前、明治2年2月14日、東久世が主催した送別会で、木戸、森有礼(サツマ・ステューデンツ)から、日本人キリスト教徒問題の助言を再度求められた。

そこで、スペインでも最近まで、新教徒の信仰の自由がなかったことなどを話し、議会の条例で、信教自由の観念を日本人に吹き込むことの困難さを認め、まず、穏便な方策を取ること。

時々、外国公使たちへ長文の覚書を送り、彼らをなだめるようにすること。

森が言うような蝦夷の地(北海道)で、キリスト教徒に土地を分配して、自由に信仰させるという考えが、良いとは思わない事などを話す。

しかし、残念なことに、ハリー卿はじめ各国外交官の諫言にもかかわらず、浦上四番崩れと言われる彼ら信徒は、津和野、萩、福山の流刑先で拷問、私刑を受けることになる。

信徒の釈放は、岩倉使節団が訪問先の各国で、この問題で非難を浴び帰国した、明治6年2月24日を待たなければならなかった。

岩倉使節団は明治4年11月12日から明治6年までアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣されていた。

配流された信徒数は3394名、その間の死者は662名の多数になった。

その後、島原のキリスト教徒に対する弾圧に、英国のアダムズ代理公使が抗議してきたことが契機となり、政府は明治6年2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去した。

布教については依然として禁じ、明治15年に信教の自由がはじめて保障される迄、待たねばならなかった。