「孤高」から「高」を括った虚飾を取り除けば「孤独」になるのであろうか。更にそこから「孤=個」を取り去ったら、ただの「毒」になったりするのかしら。私の「自我」が具現化したそれは、「過ち」の決定的証拠として、学び舎に展示され続けた。これは、罠だ。この学校というシステムが私をまんまと落とし穴にハメたのだ。

でなければ、なんだって中途半端に統一もせず、「私服でも可」などという、ネズミ捕りのような選択肢を設けたのか。

私は、自らの見栄や浅はかさを、とりあえず棚にあげて、学校という巨悪に問いを投げかけることにした。

かくも美とは、孤独である。

愚かな美は、ただ笑い者になるだけである。

しかし、これこそが我が闘争の歴史であるのかもしれない。

災いも笑いも転じて福となること、世に儘あるではないか。私の孤高は、死後、評価されるかもしれないじゃないか。

嗚呼、私はゴッホになりたい。

そう思いながら、私は耳の代わりに、今日も恥辱を削ぎ落す。自我が擦り減らないように。誰にも気付かれないように。秘密に。

ひょっとしたら私すら気付いていないかもしれない。嗚呼、ゴッホになりたいものだなぁ。

父たちの肖像

――光を仰げば影も伸び、父というものはそれぞれの形で子の眼に残像を焼きつける。

料金メーターの隣に美人さんが赤ん坊を抱えて写っていた。

「何歳ですか?」乗り合わせた友人のクロ子が訪ねる。

「この時は……まだ6か月ですね」

「へえ! そんなに小さいんですね! 写真だと大きくみえるのに」

「今はもう2歳くらいですよ」

そう答えた運転手の年齢は、奥さんの見た目からしても、おそらく三十前後といったところだ。