【前回の記事を読む】月なんて太陽の光で夜を我が物顔にしておいて「奥ゆかしさが美しいでしょう。詩に詠んでもらっていいんですよ」と気取っている

曼殊沙華の徒花

嗚呼、私は野に咲く曼殊沙華。所詮一輪の花に過ぎぬのでございますから、どうぞ皆さまお気遣いなく。

目先の珍妙なるに目を奪われて、ご自分の脚元がお留守になっては危のうございますからね。さあさあ、どうぞ私のことなどうっちゃってくださいまし。

場違いな異物感を、必殺の私服より色濃く醸し出しながら、私はできるだけ小さくなって、朋友たちの視線に平身低頭、愛想嘆願しながら歩いた。

だが、全体主義の権化である教師という名の悪魔が作成したカリキュラムは、尚も悉く私を苛み続けた。

チームごとの写真撮影という儀式。シャッターの音を合図に、恥辱の鉄槌が振り下ろされる。

緑緑と生い茂る草の中に際立つ棕櫚(しゅろ)。一人、燦然と輝くわたくし率。シラフの太陽は馬鹿馬鹿しいまでに輝いて、嫌がらせに私にスポットライトを当てているようだ。高いところであんなにも自己主張している不届き者に「目立たされている」私。なんという理不尽。

皆、見るならば頭上で能天気に熱を振り撒いている目立ちたがり屋のアイツに目を向けてしまえばいいものを、目が眩むのが嫌だからといって、それは御免被る様子。やーい太陽め。ざまあみろ。行き過ぎた自己顕示欲に人は閉口するのだ。目も当てられないと陰に目線を逸らすのだ。

そしてその視線は、根が陰でできている私に降り注いで、更に私の後ろに影を作っていく。冗談じゃないぞ、君。

写真が現像され、学校の廊下に貼り出された。

私は全ての使徒の罪を背負い磔に(はりつけ)されたキリストの気持ちに連帯した。

ジャージの波の中にぽつねんと遠く浮いている富士。葛飾北斎の捉えた奇跡の一瞬の中に見る寂寞(せきばく)。