【前回記事を読む】初めて迎える新婚の朝…朝食を2人して黙って食べた。その後、夫は「後悔していませんか」と言って俯いた…「何を?」
嵐の予兆
結婚してから3ヶ月。よし子は女将として旅館の仕事を覚えながら、雅彦との新婚生活を楽しんでいた。
朝は2人で朝食を食べ、夜は1日の出来事を話し合う。些細なことで笑い、時には意見が合わずに口論もする。でも寝る前には必ず「おやすみ」と言い合う。そんな穏やかな日々だった。
美咲も無事に大学に合格し、4月から東京で1人暮らしを始めていた。仕送りは以前より楽になった。雅彦が「家族なんだから」と美咲の学費の一部を出すと言ってくれたのだ。美咲は最初抵抗したが、「将来返すから」と条件をつけて受け入れた。
7月の終わり。旅館に1人の女性客がやってきた。
中川沙織、42歳。都内で輸入雑貨の会社を経営しているという。ブランド物のワンピースに、艶やかな黒髪。日焼けひとつない白い肌。華やかという言葉がそのまま人になったような女性だった。細い指にはさりげなくダイヤのリングが光っている。
「1週間ほどお世話になります。山の空気でリフレッシュしたくて」
チェックインの手続きをしながら、よし子は沙織の指先を見た。ネイルが完璧に整えられ、薄いピンクに繊細なラメが光っている。自分の指先を見た。火傷の痕と、温泉の硫黄で荒れた爪。
比べるまでもなかった。いや、比べること自体が馬鹿げている。でも目に入ってしまう。
沙織が旅館に滞在し始めて3日目のことだった。
よし子が廊下を歩いていると、ロビーから笑い声が聞こえた。覗くと、雅彦と沙織がソファに並んで話している。沙織が何か面白いことを言ったらしく、雅彦が声を上げて笑った。
「お久しぶりです、雅彦さん。全然変わらないですね」
雅彦さん。名前で呼んでいる。よし子の胸に小さな棘が刺さった。
(なんで刺さったの。仕事の笑顔だよ。業務上のことだよ)
その夜、何気ない風を装って雅彦に尋ねた。