「やっぱり笹本さんがよかったわ。あの人は私たちの好みを全部覚えていたもの」
胸に刺さった。裏に下がると、涙がこぼれそうになった。でも泣いている場合じゃない。
翌朝、よし子はまだ暗いうちから厨房に入った。料理長の田中に頭を下げた。
「お客様のお好みを教えていただけませんか。何が好きで何が苦手か、全部知りたいんです」
田中は驚いた顔をしたが、過去の記録を見せてくれた。よし子はノートに一つひとつ書き写した。奥様はわさびが苦手。旦那様は日本酒の辛口が好み。朝食は白米より粥を好む。
2日目の夕食。よし子はお造りにわさびの代わりに柚子胡椒を添えた。旦那様の席には辛口の地酒を準備した。配膳の手順を何度も頭の中でシミュレーションしてから部屋に入った。
「あら、わさびじゃなくて柚子胡椒?」
奥様が驚いた。
「お客様がわさびをお残しになっていたのが気になりまして。もしお口に合わないようでしたら、すぐにわさびをお持ちします」
「……よく見てるのね」
奥様の表情がわずかに和らいだ。
3日目の最終日。朝食に白粥を出した。旦那様が「おや」と声を上げた。
「笹本さんにも3回目でやっと覚えてもらったものだが。君は2泊で気づいたのか」
「恐れ入ります。至らぬ点ばかりで恐縮ですが、精一杯務めさせていただきます。またのお越しを心よりお待ちしております」
深く頭を下げた。旦那様が初めて笑った。奥様も微笑んでいた。
「次来る時も、あなたにお願いしたいわ」。