【前回記事を読む】お湯に浸かった瞬間、あっ――先に人がいたなんて。しかも現れたのは彼だった。引き締まった上半身が月に照らされて…
仲居の誇り
あの夜から3日が経っていた。
よし子は藤堂さんと目を合わせることができなかった。廊下ですれ違えば会釈だけして足早に通り過ぎ、食事の場でも視線をそらした。
頬に触れた指先の温もりが消えない。あの瞬間、自分の胸がどれだけ高鳴ったか。48歳にもなって、何を考えているのだろう。相手は雇い主だ。あれは月夜の雰囲気で、藤堂さんはただ親切に涙を拭ってくれただけ。それ以上の意味はないはずだ。
気持ちを振り払うように、仕事に打ち込んだ。朝5時に起きて廊下を磨く。布団の角を揃え、お茶を丁寧に淹れ、お辞儀の角度を鏡で確かめた。仲居として一人前になること。それだけが今の自分にできることだった。
4月半ば、旅館に常連客がやってきた。東京から年に3度訪れるという60代の夫婦で、旅館の上客だった。
「あら、見かけない顔ね。新しい子?」
奥様のほうがよし子を見て言った。
「はい、先月から務めております栗原と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「前の仲居さんはどうしたの。笹本さんだったかしら」
「笹本は半年前に辞めました。今は栗原が担当いたします」
節子が横から答えた。奥様は不安そうな顔をした。常連客にとって、顔なじみの仲居が変わるのは不安なものだ。
その不安は的中した。
夕食の配膳で、よし子はお造りの盛り付けの向きを間違えた。慌てて直そうとして椀物を傾け、汁がテーブルに垂れた。旦那様の顔が曇った。
「すみません、ただいまお拭きします」
手が震えた。布巾で拭きながら頭を下げる。奥様がため息をついた。