小児神経2 距離の差は心の差に
大学2年の夏休み、滋賀県にある障害児施設「びわこ学園」を訪ね、3週間のボランティア生活を送った。
日本の重症障害児施設の歴史は民間から始まる。1963年、先駆者たちの手で東京都に島田療育園、滋賀県にびわこ学園が作られた。それぞれ東日本と西日本の広い地域から、子どもたちを受け入れた。
しかし、過酷な労働条件のため施設では看護師不足に苦しんだ。1965年2月、秋田魁新報がその窮状を県民に訴えた。すると3月末には秋田県の新卒高校生が看護助手として、島田療育園に集団就職し、「おばこ天使」と賞された。
私が訪れた1980年頃、びわこ学園は身体障害用と、知的障害用に分かれていた。私は知的障害用の第二びわこ学園に行くことにした。歩くことができる重度の知的障害児は「動く重症児」と呼ばれた。目を離せず、仕切られた広い敷地の出入り口に、職員のみ開けられる鍵が掛かっていた。
私は、職員と一緒に園生を毎日散歩に連れ出した。炎天下、2時間の散歩は結構なトレーニングだった。手を離すと瞬時に走り出す子ども、職員の手を引っ張って別方向に向かう子ども……。一人一人と格闘しながら、近隣の街を歩いた。
ほとんどの園児はここに来る前、閉ざされた家の中で毎日過ごしていた。子どもたちにとって園がより良い生活の場であるようにと、職員は熱く燃えていた。
しかし、同園の岡崎英彦園長は違う思いだった。広く他県から子どもたちを受け入れてきたが、「故郷に帰る子は誰もいない。残念だけれども、距離の差は、時間と共に心の差になってしまう。あの子らをここに留めておくことは、帰る場所を奪うことになる。できるだけ地元の施設に返そうと思う」。
遠くにある立派な施設より、簡素でも家族の近くにある施設の方が、子どもたちにとっては貴重だと考えたのだ。多くの職員は「この子たちが幸せに暮らせる場所はここです」と反対した。しかし、岡崎園長は譲らなかった。
秋田に帰ってから、びわこ学園行きを勧めてくれた先輩に会いボランティア活動の報告をした。「園生も職員もみんな生き生きしていて、共同生活を楽しんでいる感じでした。職員同士になると、いつも熱く理想を語り合っていました」。すると先輩は、私をびわこ学園に行かせた理由を語った。
「澤石、将来、僕と一緒に秋田にびわこ学園を作らないか!」
――秋田魁新報 2012年6月26日掲載