【前回の記事を読む】両親が離婚したが、父との交流は続いていた。だが、いつの間にか性格は優しくなり、会うたびに体格まで変化していって…

4 怒涛の高等部時代

15の春に入寮した旧学園正門
寮生活の朝の日課4kmランニング

これから始まる学園生活への期待を胸に大阪梅田駅に降り立った。どんな学校だろうかとわくわくして寮の門前に立った。それは古い建物で金網こそなかったが収容所のようであった。とてもガッカリした。

これから収監されると錯覚したくらいの心境だった。恐る恐る中に入ると、大男と角刈り風の男が目の前に立っていた。「ようこそ、我が寮に来てくれて歓迎します」と、微笑んでいるようだが、不気味な雰囲気が漂っていたことを覚えている。この人たちが舎監と寮長であった。

すぐに部屋に案内されると、簡素な二段ベットとロッカーが設置された4人部屋であった。荷物をロッカーに入れた。ギターとゲルマニウムラジオだけは忘れずに持ってきていた。

忘れもしない、入寮した3月30日の日曜の夜、パリの路上でフランシーヌという若い女性が焼身自殺をしたという暗いニュースが流れていた。

その数カ月後には、ラジオからフランシーヌの心情を表現した悲しいメロディが流れていた。不安でこころが暗くなり、「これからどうなるのだろうか?」という心境の15の春はこの寮生活から始まった。

おまけに中学2年生からの丸刈りがここでも続いた。それでも、入学式までは、制約を受けずにのんびりと過ごしていた。寮の設備は古くて不便そうであったが、修行と思えば乗り越えられると思った。

海軍兵学校式スパルタ教育との出会い

いよいよ入学式と入寮式の日を迎えた。大講堂での入学式に校長が登壇した。この高橋校長は、大正末期から昭和初期生まれの戦前の若者にとってのエリートである江田島の海軍兵学校出身である。

当時の秀才達は、医学部ではなく、陸軍士官学校や海軍兵学校を目指していたらしい。

両校は、海軍と陸軍とのライバル意識の象徴であった。私感であるが、太平洋戦争(大東亜戦争)の日本の敗因は、仕組まれた誘導戦略の罠にはまったがごとくに、中途半端な真珠湾先制攻撃の暴走と「侵略」という汚点を決定づけることとなった1941年の開戦から、翌年のミッドウェイ海戦までの油断に尽きる。

そして根本は、陸軍と海軍の対立に一因があったと考える。 私は、いかにも元海軍兵らしく、誇り高く堂々と演説する高橋校長の声の大きさと自信に満ちた姿勢に圧倒された。